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御陵の信仰告白:「神」なるものの存在
……これまたのっけから電波系でごめんなさい。
その昔、「アナタは神を信じますか?」などというギャグがTVを流れたことがありました。
で、そんな人に御陵はマジメに問いたいのです。
「そういうアナタは、神の何を信じるというのか?」
もし、御陵が同じ問いをされたなら、御陵は胸を張って答えます。
「神の実在と公平を」
では、御陵が実在を信じる『神』とは?
……御陵の学生時代の学部は比較思想(東洋哲学)/民俗学/宗教学でした。
周囲には既存の宗教、新宗教・新新宗教の信者が到るところにおりまして、ヒンドゥー教徒やイスラーム、果ては山岳修験の行者やオウム真理教の信者もおりました。
そういう中で、「宗教学=“宗教とは何かを問う学問”」をかじり、いろいろな聖典・経典を見聞きした御陵は、確信しました。
「やっぱり、宗教というものはロクなものじゃない……」と。
とはいえ、長らく存在し、良くも悪くも人々を導いてきたものが宗教であるのは間違いありません。
根本から否定するつもりはありませんし、揶揄するつもりもありません。
ひとが何を信じるかは自由ですし、その自由は大切なものなので。
語弊があるかも知れませんが、それは余人の関与を許さない個人の好みの問題ですから。
というワケで、御陵がいろんな教義を見聞きした中で、
「かなりまとも=御陵の好みに合う」と感じたのは、概ね三つ。
・初期仏教
・『トマスの福音書』
・世界三大霊訓(『霊訓』、『霊の書』、『シルバーバーチの霊訓』)
その中でも、御陵の神観念に影響を与えているのは、『シルバーバーチの霊訓』だと思います。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、この書物はいわゆる「スピリチュアル」の基礎文献の一つです。
この書物に繰り返し出てくる神観念が、一番御陵の好みに合うかな、と。
すなわち……
・神とは、万物を創造した一つの存在である(『大いなる一者』)
・神とは、人格を持たない(恐らくひとには感知できない)が、
万物を無窮に愛している
・神とは、無数の法則としてこの世に顕現し、
その法則は条件が揃えば自動的に発動する
という感じ。
御陵的には、
「この世のあらゆる事象の存在を許し、全てを公平に扱う一つの存在」、
それを「神」なるものと呼ぶ、というところかと。
そういう存在に、御陵は毎朝ひとこと祈りを捧げております。
――かみさま、かみさま、かみさま、今日も一日生かして頂き、
ありがとうございます――
これ以外、御陵は誰にも何も祈りません。
ちなみに、御陵は「スピリチュアル」という言葉が嫌いです。
日本語の特性と好みの問題かも知れませんが、漢字の言葉を英語他アルファベットの言葉に置き換えると、その語句の本来の意味がぼやけてしまうことが、ままあるように思うのです。
(なので、御陵が書く話は、可能な限り漢字表記の言葉を使うようにしております)
では、「スピリチュアル」の本来の日本語は何か?
恐らく日本の初期の翻訳家は、英語の“Spiritual”に相当する適当な概念が既存の日本語がなく、苦労したのだと思いますが、基本は「心霊主義」と思われます。
今はたぶん、一般的には「スピリチュアル=心霊主義=オカルト的なもの(非物質的/精神的なもの)」という印象で広まっているのかな、と。
で、「スピリチュアリスト=非物質的/精神的なものに価値を置くひと」ということになるのだと思います。
でも御陵の好み的には、「スピリチュアル」は「霊的な・霊性」とするのが一番しっくりくる感じ。
本来の「スピリチュアル」は、もっと内省的で自分の在り方に深く関わるものだと御陵は思っております。
しかし一般に認知されている「スピリチュアル」は、外界に向かい過ぎているうえに、目に見えないものを広く包含し過ぎていて、かなりアヤシいモノ・危険なモノまで含めてしまっているような……。
そういう意味で、本来的な「スピリチュアル」は、「オカルト(特にポップ・オカルト)」とは厳しく区別するべきだと思うのですが。
ところで、別項で昔のPCゲーム「ウルティマ4」の話を書きました。
その中に出てくる8つの徳の一つが、英語では“Spirtuality”、日本語版では「すうこうなこころ」でした。
御陵は、これはとてもいい和訳だと思うのです。
そんなワケで御陵は、
「神」なるものの存在を信じる
「オカルティスト(=神秘主義者/秘儀探究者)」で、
「スピリチュアル(=霊的)」な事象に深い関心を抱く
「スピリチュアリスト(=霊性向上運動の賛同者)」である
と、胸を張って自白(告白?)するのであります。
「公平」については、また別項で。
(無駄に長くなるので。多分)
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