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期待した答えは何一つとして返っては来なかった。体の底から、灰色をした不安が迫り上げてくる。まっすぐに階上を見据える兄の眼は、硝子玉のように静かで、冷ややかだった。「ごめん」
「いい過ぎた」
想定していたよりも喉から出た声は小さく、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。もう余計なことをいわないように、としっかり口を結んで顔を伏せる。また、手と手の境目が薄くなっていくのを感じていた。
戸惑いがちに見上げると兄は先刻と同じ眼をしていた。それなのに手の平は、夏の窓辺のように熱を放っている。じわじわと肌に浮かんで来る汗はもはや、兄のものなのか、僕のものなのか、定かではなかった。
さくらまつりの喧騒が近づいてきていた。さくらはもうほとんど散ってはいるけれど大勢の人が集まっている。僕らは最後の段を同じタイミングで踏み越えた。
ついさっきまでは遠かった人の群れが眼の前に、突然、現れたような感覚がして僕は一歩、後退った。
その様子に気付いた兄に引っ張られて自由に歩き回る人波を、泳ぐように進んでいく。暫くして、ひしめき合う人の塊にぶつかった。
「見える、」
何も、と首を振る。何を指しているのかは分からないけれど、少なくともそれが、他人の後ろ姿でないことは確かだ。
「仕様がないな」
急に地面の感覚が消えた。「わっ」不安定に揺れる僕の体を支えながら兄はゆっくりと立ち上がる。
「見える、」兄は再度そう問いかけた。
人々の視線の先には簡易的なステージがあった。布で隠しきれていない鉄パイプが剥き出しになっている。
丁度、小学生の合唱団が歌い始めようとしていた。揃いの服と帽子を身に着け、同じ姿勢できちんと二列に並んでいる。
その中に背丈の低い彼方の姿を見つけた。例外なく彼も、険しい顔で顎を引いている。中には余裕そうな顔をしている子もいるけれど指で数えられる程度しかいなかった。彼らは明らかに学校のステージで歌っていた時に浮かべていた笑顔を忘れている。
「重たくない、」
上から顔を覗いて尋ねた。
「君は小柄だから」
子供たちは美しい声を合わせて歌い出す。彼らの声が伸びる空では、一羽の鳥がゆうゆうと、つばさを広げて飛んでいた。
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