寂しい(アルブレヒト)

1/1
439人が本棚に入れています
本棚に追加
/52ページ

寂しい(アルブレヒト)

人気の無い中庭に、羽根のような雪が降る。  ともすれば雪に埋もれてしまいそうな墓石を手の平で丁寧に撫でたアルブレヒトは、白い息を吐きながらも隣りに腰を下ろした。 「静かですね。雪が、音を吸って」  ひっそりとした世界に、アルブレヒトだけ。外套を纏うだけの防寒では心許ない冷たさがあるのに、彼はまったく構うことがなかった。 「エルの森に比べれば温かいですが、それでも今年は雪が多いです」  静かな声に返す者はない。わかっていても、アルブレヒトは話し続けなけれ ばならなかった。 「一年が終わります。案外、あっという間でしたね。去年の私は、この日が年末なのか、新年なのかもわからないままでしたが」  暗い牢獄の中にいた去年の冬をふと思い出して口をついた言葉。だが言った後でハッとして、隣を見た。まるでそこに、人がいるかのような表情で。 「貴方を責めた訳ではありませんよ、ナル。ただ、ふと思い出しただけで……」  あぁ、ダメだこの話題は。彼を思い出しすぎる。彼の与えた苦痛を思いだして、それすにすら縋りそうだ。 「……そう言えばね、次男のスカルトが私に懐いてくれたんですよ。あの子はとても人懐っこくて、ちょっと甘えん坊で。よく私の膝に乗っては、夜の本をねだりにくるのです」  キルヒアイスの六人の子供。そのうち年長の三人は、現在アルブレヒトの下で日々勉学に励んだりしている。  長女のエルヴァは利発な子で、皆のお姉さんをしている。おしゃまさんで、女官相手に少し大人の話をしている。きっと聡明で、少しじゃじゃ馬な子に育つだろう。  長男のルートヴィヒは賢い子で、少し遠慮がある。長男として、エルヴァやスカルト、その下の子の事も背負おうとしている。とても小さな背中、細い腕で。それが少し不憫であり、心配で、今一番甘やかしたい子になっている。  この子とは正反対に、次男のスカルトは甘えん坊で人懐っこく、屈託なく笑う愛される王子だ。既に世話係の女官が数人メロメロになっている。きっとこれからも素直に、皆に愛される子に育つだろう。 「下の三人の子は、まだ赤ん坊で話す事もままなりませんが、魂の色はとても綺麗なのですよ。一気に四男二女の父親なんて心配でしたが、今はとても楽しくしています」  あの子達がいるから、きっとこの心は保てている。日々の話を聞いて、一緒に食事をして、寝る前に絵本を読んで。この時間がなければ、今頃仕事だけになっていた。  人に救われる。そうして今まできたけれど、これからもきっと……  鳥が鳴いて、枝を揺らして雪が落ちた。顔を上げると少し遠い場所で、エトリムがきっちりとお辞儀をした。 「……また、きますね」  そっと指先でなぞるように墓石に触れたアルブレヒトは立ち上がり、呼びに来たエトリムに連れられて執務室へと戻った。  執務室へ行くと、宰相のグーティともう一人、息子のルートヴィヒがいた。 「おや、珍しいですねルー。仕事の見学ですか?」 「はい、父上。グーティ様が良いと言ってくださったので、ほんの少し見せて貰っておりました」  しっかりと、硬い言葉で返してくる子は真っ直ぐにこちらを見る。緊張した面持ちで。  きっとこの子の中ではまだ、どこか疑いがあるのだろう。今が続く事への疑い、この愛情が変わらない事への疑いが。だからこそ必死に、この場所にしがみつこうとしている。良い子で、有能な子であろうとしている。  ポンポンと触れる手の平、そこから流れるルートヴィヒの心は緊張している。この緊張を解きほぐして、大丈夫なんだと思ってもらいたい。少しずつでも構わないから。 「陛下、年始の仕事について確認に参りました」 「あぁ、そうでしたね。明日は昼くらいに民の前に顔を出し、新年の言葉を伝えます。その前に一年を神に祈り……」 「その事なのですが、明日は一日貴方様にもお休みいただき、明後日になさってはどうかと、家臣共々話しております」 「……は?」  目を丸くして首を傾げるアルブレヒトに、グーティは静かに伝えた。 「戴冠してこれまで、貴方様はまるで馬車馬のように働いてきました。国にいるどの勤勉な者よりも、朝も夜もなく働き通しです。これでは体は疲れ、心は擦り切れてしまいます」 「そのような事はありませんし、必要な事をしているだけです。何よりお前達に任せられる事はお願いしていますから、思ったよりも順調に事が進んで楽をしていますよ」 「順調に進んでいるからこそ、多少の時間が取れるのです。時間が許すのなら休んで、心身共に健やかであることも王の大事な努めです。心が病んでも、体が病んでも国は健康であれません。貴方はこの国の心臓であり、頭であるのです」  淡々とこのように言われては弱い。だがアルブレヒトはあまり休みを取りたくないのだ。  困ったように曖昧な笑みを浮かべると、不意に袖を引く力がある。見るとルートヴィヒがとても真剣な目で、アルブレヒトを見上げていた。 「父上、どうかお休みください」 「ルー?」 「心配です。お仕事もしているのに、毎日欠かさず夕飯はご一緒してくれて、時々お風呂も入れてくれて、寝る前の本まで。グーティ様に聞きましたが、その後でまた仕事に戻られる事もあるとか。これでは、父上は眠る時間も無くなってしまいます」  青い瞳が揺れている。そこには心からの心配しかない。控えめでも、この身を案じてくれている。こんな小さな子にまで心配をかけてしまっているのは、申し訳なかった。 「明日は私達も大人しくしていますので、どうか休んでいてください」 「……わかりました」  根負けしたアルブレヒトは、さてどうしようかと内心とても困ってしまった。  その夜、子供達に本を読んですぐに寝所に潜り込んだ。こんなに早く眠るのは、本当に久しぶりの事だった。  本当ならば明日の早朝から神に祈りを捧げ、一年の無事を願おうと思っていたのだが。 「……どうしましょうか」  眠りに落ちる前、アルブレヒトはそう呟いた。休みが一日なんて、長すぎる。仕事以外の時間など、長くない方がいい。考える時間が長いというのは、思い悩む時間が長いということでもあるのだから。 「……」  少し遠く、声が聞こえる。誰かが肩に触れて、揺すっている。  けれど心地よい微睡みの中、起きてしまうのが勿体ない。温かくて、とても心地よいのだ。 「我が君、起きてください」  少し声がはっきりする。誰かが呼びながら、起こそうとしている。 「我が君、良き新年ですよ。雪も晴れて、心地よい日差しが注いでいます」 「もう少しだけ……」 「困った方です。私には限られて時間しかないというのに、一日を寝倒すおつもりですか?」  耳慣れた心地よい声が、クスクスと笑う。そしてフッと、耳に息を吹きかけられた。 「!」  ゾワゾワッとした感覚に飛び起きると、その人物は驚いて身を引いて、次にとても楽しげに笑った。  綺麗に長い白い髪、白い肌に、薄い宝石の様な緑の瞳。スッキリと通る鼻梁と、形のよい唇に、鈴を転がすような心地よい声…… 「ナル、サッハ? なぜ、お前が……」  彼は死んだ、目の前で。最後の息が消えるのを、体温が消えていくのを、その魂が地獄へと向かうのを見ていた。  では、今目の前にいる彼は?  ナルサッハは昔と変わらない穏やかな表情で笑う。本当に、とても綺麗な笑顔で。 「夢ですよ」 「夢?」 「えぇ、夢です。息子溺愛の貴方の父が、貴方に見せる一時の夢。私もそこに、しばしお邪魔させてもらっているのです」  夢、というのならわからないではない。感情が動き、触れる感覚があるのだが。 「正確には貴方の父君は、眠っている貴方の魂を引っ張り出して、一時箱庭に入れたようですが」 「相変わらず無茶苦茶な事を……」 「それほどに貴方を案じ、貴方を溺愛しているのですよ。そのおこぼれに預かる私は、とやかく言える立場にありませんが」  朝っぱらから頭が痛い事態に乱暴に前髪をかき上げたアルブレヒトは、目の前のナルサッハを見る。  この魂が一時肉体を離れ、同じく魂であるナルサッハと共にあるというなら、触れている感覚やこの会話は本物なのだろうか。 「ナルサッハ」 「はい」 「お前は今、どこでどのように過ごしているのですか?」  とても不安だった。この世を彷徨う魂は目に触れるし、言葉も交わせる。けれど行き先が決まった魂はそこへ行ってしまうのでアルブレヒトではどうする事も出来ない。墓に行き、日々の事を語るのはアルブレヒトの自己満足でしかないのだ。  ナルサッハは少し困った顔をする。言いたくはないのだろうが、やがてベッドに腰を下ろして静かに語った。 「地獄におります」 「……そう、か」  では、苦しいのだろうな。罪の分だけ責められ、苦痛を与えられる。そこに人のような酌量はない。 「ですが、貴方の供養のおかげか、はたまた苦しむ息子の姿に耐えられない父の慈悲か、他の罪人よりはずっと恵まれております」 「そう、なのかい?」 「えぇ。日の三分の二は地獄にて罪を洗い、残る時間は貴方の父の元で身を休める事を許されております。そして、十年という期限を頂きました」 「十年?」  ナルサッハはゆっくりと、そして確かに頷いた。 「十年の後、私はこちらへと戻れます。人ではないかもしれませんが、貴方の側に戻れるようにと願っております」  その言葉に、アルブレヒトは目を見開いて、次には思いきり抱きついた。  十年は長い。だがいつかわからない未来を待つよりは近い。  柔らかく微笑んだナルサッハもまた抱き返して、互いにしばし身を預け合っていた。  そうしてしばしの時間が過ぎて、どちらとも無く身を離す。そうして改めて見つめ合うと少し照れくさく、顔が火照るような感じに耐えられずに視線を逸らした。  すぐ側でくすくすという、心地よい笑い声がした。 「さて、我が君。せっかく頂いた時間です。まだ日も高いのですから、私と一緒に外へ出かけませんか?」  立ち上がったナルサッハが手を差し伸べる。その、明るく柔らかな表情はどのくらいぶりに見たのだろうか。彼が城に来て落ち着いて生活していた時は、こんな顔をよく見た気がする。  城の中も、街中も、現実の風景と何一つ変わらなかった。  一つ妙な事があるとすると、そこにいる人々の印象の薄さだろうか。普通に話しているし、表情もわかる。にも関わらずすれ違って五分もしないうちに頭の中から顔や声が消えてしまうのは、妙な気分だった。  ただ一人、隣りで少しはしゃいだ風にしているナルサッハだけが、モノクロの世界に鮮やかな色彩を放っているように鮮明だった。 「こうして二人だけで街に出たことは、なかったので。一つ夢が叶いました我が君」 「夢の中なのに、ですか?」  ――そんな夢、いくらでも叶えてあげたのに。  子供のような明るい表情で笑うナルサッハは、とても可愛らしく映る。死んだ時の年齢だから、二十代も後半だったはず。姿はそうなのに、中身は十代の少年のようだ。 「夢の中だから叶うのですよ。現実に私は存在いたしませんので」 「……そう、ですね」  ズキリと胸が痛む。楽しいのに、現実ではない。それを突きつけられている。この胸の痛みが妙にリアルなのは、これがただの夢ではないからだろうか。 「あそこは、果物を売っているのですね」 「ん?」  丁度市場にさしかかり、ナルサッハが指を差す。その先には色々な食べ物を売る店が出ている。その中に確かに、果物を売る店があった。  ナルサッハは興味があるのか、視線をそらせなくなっている。アルブレヒトはくすりと笑い、手を引いて店の前に連れて行った。  その店では蜜柑を売っていた。果物は冬に少なくなるが、蜜柑は今が旬だ。美味しそうなそれが籠に盛られて売っていた。 「美味しそうですね、ナル」 「はい」 「一山、買って行きましょうか」 「え?」  驚いたナルサッハを尻目に、アルブレヒトは懐から財布を出して籠一つ分、十個ほどの蜜柑を買って袋に入れてもらい、そのまま市を進んだ。 「なんだか、申し訳ありません」 「そんなに気に病む事はないでしょ? それにしても、お前は蜜柑が好きでしたか?」  ふと思い出してみたが、そんな記憶はない。いや、果物は全般好きそうだったがあんなに食い入るように見るほど好きだったかと思ったのだ。 「……喉が渇いてしまって、たまらないのです。好きな果物はリンゴですよ」 「喉が? ……あ」  そうか、熱いのか。  古い文献で読んだ事がある。地獄というものは、とても熱いそうだ。そして喉が渇く。腹は満たされず、眠りは来ず、死んでも蘇り、また殺される。終わらない絶望の中で、己の罪を見つめ悔いるのだとか。 「すみません、気付かなくて」 「貴方が気に病む事はありませんよ、我が君」  今度からは彼の墓に、季節の果物を供えてあげよう。出来るだけ瑞々しいものを。それが彼に少しでも届いて、喉を潤してくれるのならば。  そうして市を進んでいくと、ナルサッハが不意に足を止めた。そこはシルク製品を売っている店で、店頭に綺麗な色のハンカチが置いてあった。 「これ、綺麗ですね」  そう言って彼が手に取ったのは、薄い紫色に染めたハンカチだった。何度もそれを見つめたナルサッハは懐から財布を出してそれを買い、アルブレヒトへと差し出した。 「え?」 「蜜柑のお礼に。この色、貴方の瞳の色に似ていて綺麗ですよ」  言われてみれば確かに、そんな気もする。なによりナルサッハがとても嬉しそうな顔をするので、アルブレヒトも受け取って礼を言った。  市を出て公園へとさしかかる。子供達が遊ぶのを見ながらベンチへと腰を下ろし、二人で蜜柑を食べている。多くは語らなかったけれど、穏やかな時間だ。 「あの子達」 「ん?」 「昔の私達に似ていますね、我が君」  ナルサッハの視線の先には、仲の良さそうな男の子二人が雪を舞上げて遊んでいる。少し年上らしい子が両手ですくって舞上げた雪を、もう一人の子が見上げて声を上げている。 「あそこまで子供っぽい事はしませんでしたよ」 「でも、こっそり私の首筋に雪玉当てて驚かしたりはしましたよね?」 「……しましたね」 「ふふっ」  あまりに珍しそうな顔で雪を見上げていたから、脅かしたんだ。エルの森にも降っていたはずなのに、何が珍しいんだろうと思っていた。  彼は長く、雪を見上げる余裕もなかったんだろう。城に辿り着くまで、彼に心安まる時間はなかったのだから。 「我が君、一つ伝え忘れていました」  唐突に言われ、視線を向ける。ナルサッハはちょっと寂しそうな顔をして、遊んでいる子供二人を見ながら言った。 「いつか、貴方に頂いたバンクルなのですが」 「あぁ」  そういえば、そんな物があった。ナルサッハが来た年の新年、他国の行商が城に来て装飾品を売っていた。そこにあった金のバンクルが綺麗で買った。本当は同じ物が二つあればよかったけれど、無いから一組を二人で分けてつけていたのだ。 「辺境地に行く前に外して、その後は忘れたままでした」 「申し訳ありません、我が君。実はあれ、私が持ち出していたのです」 「え?」  申し訳無く目尻を下げたナルサッハを見て、アルブレヒトはキョトンとする。首を傾げると、彼は恥ずかしそうに頭をかいた。 「キルヒアイスが貴方の部屋を家捜しする前に、あれだけは回収したくて。貴方に頂いた、大切なものですし」 「では、お前の部屋にあるのですか?」 「はい。城に戻りましたら場所をお教えいたします」  蜜柑を食べ終えて立ち上がったナルサッハと二人、城へと戻る二人の間に会話は少なかった。  日が、傾いてきている。後どれくらい、彼と一緒にいられるのだろうか。この夢はいつ、終わりを迎えてしまうのだろうか。それが気になって、苦しくてたまらなかった。  城の中にあるナルサッハの部屋は、今も手つかずのままになっている。どうしても、片付ける事ができずにいるのだ。  ナルサッハはそこにアルブレヒトを招き入れ、衣装タンスを開けるとその奥にある底板を上げた。 「そんな所に隠し戸が」 「えぇ」  ほんの僅か指に引っかかる程度の窪みに指を入れて開けたそこには、綺麗な箱が入っている。それをテーブルの上に乗せて蓋を開けると、そこには一組のバンクルが綺麗に並んでいた。  金で、幅は五センチほど。小さな宝石と銀の細工もされた、美しい草花の掘り込みがしてある。  ナルサッハはその一つを手にすると留め金を外し、アルブレヒトの左の腕に嵌める。ピッタリと嵌まったそれを撫で、左手を取って愛しげに唇を寄せる彼はとても切ない目をしていた。 「ナル、手を貸しなさい」 「え?」 「いいから」  同じく左手を取り、アルブレヒトも同じようにバンクルを嵌める。そして手を取って、その指先にキスをした。 「我が君……」  ほんの少し恥ずかしげに頬を染めるナルサッハは、可愛く映る。そっと頬に触れ、唇にキスをすると彼も応じてくれる。絡めた舌の感触は、確かなものだった。 「我が君、お願いがあります」 「なんですか?」 「私を……抱いて頂けないでしょうか?」  薄い緑色の瞳を揺らし、頬をほんのりと染めながら言うナルサッハの色気はハッとするものがある。色欲などに支配されたことのないアルブレヒトでも、ドキリとするくらいだ。  でも、躊躇いが強い。ナルサッハの人生は色欲に振り回されたものだった。汚い男達に見つかり、手折られ、翻弄され、傷つけられてきた。そんな彼を抱く事は、彼を傷つけはしないだろうか。自分もまた、彼を傷つけた男達と同じにならないだろうか。 「……私は、お前を傷つけるような事は」 「我が君」  躊躇い口にしようとした言葉を遮るように呼ばれ、顔を上げた。ふわりと側に来たナルサッハは、柔らかく微笑んでいた。 「私は傷付きはしません。むしろ、嬉しいです」 「ですがお前!」 「初めて、自らの意志で抱かれたいと願うのです。無理矢理でも、命令でもない。私は貴方に恋い焦がれているからこそ、貴方に抱かれたいのです」  そこに、明確な違いがある。  そう言うナルサッハの瞳に嘘はない。綺麗な笑みが陰りはしない。ほんの少し、恥ずかしそうではあるが。 「これが、私の最後の……そして叶わなかった願いなのです。なにせ想いが伝わったのが、死後でしたので。こればかりはどうしようもなくて、心残りだったのです。このようなだらしない、穢れた体で申し訳ないのですが、もしも良いと言って頂けるのでしたら」 「お前は穢れてなどいません。出会った時も、再会の時も、そして今も変わらず綺麗です。お前の魂は、穢れてなどいません」  声を大きく否定したアルブレヒトを見て、ナルサッハは恥ずかしそうに頬を染めながらも嬉しげに笑った。  その顔が少し幼くて、出会った時の事を思いだしてしまった。  誰かと床を共にしたいと、思った事はなかった。そもそも子を成す力のない者が悪戯に誘うものでもないと考えている。もしもそれでもと言うなら、それは心から求める者とだけ。そして今まで、そのように思う相手がいなかった。  ゆっくりとベッドに横たえたナルサッハはとても綺麗だ。白い髪が散り、薄い緑色の瞳が見上げてくる。見つめて、キスをして、互いの口腔を味わうように解きほぐしてゆくとムズムズと体が疼く。この感覚は初めてのものだ。 「我が君」  うっとりと呼びかけられると愛おしさがこみ上げてくる。この日を、アルブレヒトも望んでいたのだろう。強い恋情というものを知った時にはもう、求める人はこの世に存在しなかった。  服をそっとはだけさせ、覗いた肌に触れてみる。今はこの手に、温かさを感じる。  だがここから先が進まない。なぜならアルブレヒトにとってこれが、愛しい人と交わる最初の夜だから。 「あの……ナル」 「はい?」 「ここから先、どうしたらいいのでしょうか?」  アルブレヒトの問いかけに、ナルサッハもまた目を瞬かせて固まってしまった。  嬲られた事はある。それこそつい一年前は暗い牢獄に繋がれ、昼も夜もなく男を受け入れていた。だからどうすれば痛くないか、どのような手順を踏めば負担が少ないかは嫌と言うほど分かっている。  だが愛情持って触れられた事はなく、そのような日は来ないと思っていたから予備知識もない。そもそも恋愛はこれが最初で最後なのだ。 「すみませんナル、前戯というものをすっ飛ばしたものしか経験がなくて……」 「いえ、そんな! そもそもそのように仕向けたのは私ですので、むしろ申し訳なく……どうしましょう、私も一方的な欲望しか受けた事がないので」  そうか、ナルサッハもまた他人の欲望に振り回されただけで愛情での交わりは経験がないのか。  アルブレヒトはしばし考えて、笑った。そしてまずは肌の上に手を這わせ、淡く色付く胸に唇を寄せた。 「あん!」 「では、答えは互いに知らないのですね。ならば、探っていけばいいだけのこと」  口腔で転がすとすぐにぷっくりと膨らみ、硬く尖る乳首を更に舌で押し潰したり、吸ってみたりする。不思議と、嫌悪のあった行為が愛情表現に思える。  ナルサッハもまた気持ちがいいのか、小刻みに体を震わせ愛らしく声を上げる。恥ずかしそうに染めた肌が、より一層愛らしく思える。  もっとこの声を聞いていたい。もっと、艶っぽい瞳を見ていたい。そんな欲望が出て来てしまう。 「我が君っ」 「気持ちいいですか?」 「はい、とても……っ、ふぅ、んぅ」  身を捩るように快楽を逃がしているナルサッハの唇に、優しいキスを。求めるように互いを味わうのは、心地いい。牢獄の中では嫌悪しかなかったのに、今はとても幸せな気持ちにしてくれる。 「ナル?」  不意に見た彼は薄らと涙を浮かべている。だらしなく、幼く笑いながら泣く姿に、僅かに胸の奥が痛くなった。 「辛いのですか?」 「違います。嬉しくて、たまりません。誰かに抱かれる事が幸せだなんて、これが初めてです」  そう言って、泣くのだ。  切なくて苦しくてたまらない。抱きしめたアルブレヒトの背に、ナルサッハも手を置いた。 「ずっと、この淫らな体が嫌いでした。抱かれる事など嫌なのに、逆らえない好みが憎かった。でも今は、幸せです。貴方の与えてくれるものを受け取れる事が、こんなにも嬉しい」 「ナル……」 「お願いです、我が君。もっと、欲しい。貴方が欲しいです」 「私が与えられるものであれば、全て」  そう、全て。命をというならこの瞬間、渡してもいい。この夢の中でずっと暮らして行きたいというなら、それもいい。現実はあまりに悲しく苦しく、夢はこんなにも甘美だ。  けれどその心を読んだように、ナルサッハは困ったように微笑み、手を離してしまう。ずるい男だ。こんなにも心を捉えて放そうとしないのに、彼は手を離してしまうのだから。  クリクリと指の腹で乳首を捏ねて、時に摘まんで。それだけで何度か、ナルサッハは達したのだろう。ビクンと腰が跳ね、高い声で泣く。それでも昂ぶりは柔らかく大きくは育たない。トロトロと白濁があふれはしても、射精とは到底言えないものだった。  あの男に薬漬けにされ、射精できなくなった。死後彼から聞かされた事が本当であると、言われているようだ。  地獄の底に引きずり込み、延々とその身を食われ続けるだけでは収まらない怒りが湧いてくる。こんなにもナルサッハを傷つけて、苦しめて……神の子であれば魂ごと消してくれたものを。 「我が君」  不意に伸びた手が頬に触れて、ハッとして見上げる。ナルサッハはとても困った顔でこちらを見て、首を横に振った。 「怖い顔をしています。お願い、今はそんな顔をなさらないでください」 「すみません」  そう、今は幸せな時間なのだから、他の事など考えなくていい。  アルブレヒトは唇で胸を遊んだまま、そっと手を彼の昂ぶりへと伸ばした。 「んぅぅ! あっ、そちらはっっ」  柔らかく触れ、握り込んで上下に扱く。硬くなる事はないけれど、そのままでビクンと震えまた白濁がトロトロと溢れていく。 「そちらは、機能していません。だから……」 「でも、気持ちはいいのでしょ?」 「……はい」 「では、問題ありません」  体をずらし、柔らかなままのそれを口腔に収める。芯を持たないそれは苦しくなく奥まで入る。丁寧に口腔で舐め、しゃぶっていくと口の中に男の味が広がった。 「我が君、そんなっ、あぁ」  恥ずかしそうに真っ赤になったナルサッハは見ないようにしている。ハフハフと息をして、下肢がずっと痙攣したように震えている。  前を咥えたまま、その奥にある後孔へと指を触れ、撫でてみた。既に何度も達したのだろうそこは弛緩して柔らかく、指の二本を軽く飲み込んでいった。 「んぅう! あっ、駄目です我が君! 両方はよすぎる!」  腰が跳ね上がって、熱くうねる中が締まって吸い上げていく。指を美味しそうに飲み込む狭く熱い部分が、僅かに濡れているきさえする。  この中に自らの欲望を埋め、突き立てて放つのはどれほどに気持ち良く、満たされるのだろうか。思えば腰が重く痺れた。そして、自らの前も大きく育っていく。  滑稽だ。孕ませる事もできないのに、しっかりと反応はする。 「ナル……もう、いいですか?」  絶頂から戻って来たのか、緩まったそこを解しながら聞いた。ここに、挿れたい。なにも生まないとわかっていても、この欲望を止める事ができない。 「欲しい、です。我が君」  ニッコリと幸せそうな表情で微笑むナルサッハが欲しくて、アルブレヒトは初めて他者の中に己を埋めた。 「はぁ、んっ、うぅぅぅっ!」  挿れた途端、締め上げながら深くへと誘い込むようにうねる中に腰が痺れる。気を抜けば挿れただけで達しただろう。だがそれをやり過ごし、アルブレヒトは奥を突き上げる。その度に達するのだろう。ナルサッハは泣きながら必死に腕を伸ばし、アルブレヒトを抱いて震えた。  腹がドロドロに汚れていく。アルブレヒトも一度、彼の中に熱を放った。確かに奥深くへと放ったのに、それでも萎えていかない。そしてナルサッハもまた、手放す気がなさそうに締めつけてくる。  生産性などない。男同士であり、夢であり、そもそも種もない。それでも滑稽に腰を振り、求めて交わり更に欲するのは、愛しさであり欲望でもある。夢の中では何でもありだというのなら、今この瞬間に彼を孕ませ自らの物だと高らかに宣言したい。  人の心は、こんなにも欲深い。無駄とわかってもなお、手放せない。 「ナル、愛しています。お前を、ずっと」 「我が君」 「次の世があるなら、私はお前を探し出す。今度こそ手放しはしない!」  手を離した結果が今。ならばもう、手は離さない。例え彼が離れる事を望んでも、絶対に捉まえておく。他人に受け入れられない関係であったとしても、構わない。  ナルサッハは驚いて、次には幸せそうに笑った。 「私も、そう願います。貴方を探して、また共に。形は違っても、貴方の側に」  抱き合って、グチャグチャに混じり合って……目が覚めたらいつもの自室だった。  隣りに、ナルサッハはいない。  ズキリと痛む胸に服を握ったアルブレヒトは、それでも立ち上がって着替え、外に出た。  新年の城は少し閑散としている。剣一本を持ったまま、アルブレヒトは求めるように外に出た。  街におりてしばらく。天気が良くて温かく穏やかな日の下、アルブレヒトだけが空っぽのまま歩いていく。  そうして見つけたのは、二人で歩いた市場。夢の中と同じ、美味しそうな蜜柑が売られている。 ――喉が渇いてしまって、たまらないのです。  気付いたら店の前にいて、売られている蜜柑を一籠買った。それを袋に歩いていくと、彼が足を止めたのと同じ場所にシルク製品を売る店があって、そこに彼が選んでくれたのとまったく同じハンカチが置いてあった。 ――この色、貴方の瞳の色に似ていて綺麗ですよ。  それも、買ってしまった。  そうしてまるで夢の中の欠片を拾うように歩いて、公園にさしかかる。そこでは仲の良さそうな子供が二人、空に雪をばらまいている。キラキラと、光を浴びて輝く雪が降ってくる。  ふと、ベンチの隣を見た。ここに、彼はいたのだ。美味しそうに蜜柑を食べながら、遊ぶ二人の子供を眺めて昔の話をした。服の中に雪を入れて、驚く彼を見て笑って、そこからは雪の掛け合いをして…… 「帰ろう……」  ここは寒くて、苦しくてたまらない。だから、いられない。  城に戻って真っ先に向かったのは、彼の墓。そこに蜜柑を三つ置いて、笑った。 「蜜柑、美味しかったですね。喉、渇くでしょ? 少しでも楽になるといいのですが」  墓石を撫でても、冷たいばかり。彼はあんなに温かかったのに。  駄目だ、息ができない。苦しくてたまらない。どうして人の心はこんなにも、明確に痛みを訴えるのだろう。  向かったのは、ナルサッハの部屋だった。夢の中と同じ、片付けられないままの部屋。それでも綺麗なのは、彼が普段から身の回りを片付けていたから。昔から几帳面な所があったから。  衣装タンスの前、その底板の一部は確かに窪んでいた。そこに指を引っかけると、外れる。そして中には夢と同じ、綺麗な箱が一つ入っている。  箱をテーブルの上に乗せて蓋を開けると、中にはあのバンクルが入っている。色褪せない金色の、綺麗なバンクル。二人でこれを訳あったとき、これでずっと一緒だと思った。ずっと一緒にいて欲しくて、その証が欲しくて贈ったのだ。  片方を自分の左腕に嵌めた。けれどもう一つを手にしたまま、動けなかった。ここに彼はいない。このバンクルを嵌めた相手は、いない。 「…………して」  ポロポロと、頬が濡れる。彼と別れた日からずっと、我慢していた。言ってもどうしようもないから、言わないようにしていた。言えばきりがなくて、次々溢れて止まらないから思わないようにしていた。 ――寂しい。  このベッドで、互いの体温を分け合うように抱き合った。愛しくて、初めて肉欲を覚えた。明確に彼が欲しいと願った。なのに…… 「どうして、お前はいないのですか。こんなの、耐えられる訳がないじゃないですか。どれだけ願っても得られないのに、夢だけなんて酷すぎる。いくら夢を反芻しても、隣りに貴方がいないことを確かめるばかりなんて」  苦しくて息ができない。悲しくて涙が止まらない。嬲られた五年は耐えられても、こんな気持ち一日だって耐えられない。  贈る相手のいないバンクルを抱いたまま、アルブレヒトは日が暮れてもまだ、彼の部屋で泣き続けていた。
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!