引越し蕎麦を渡すまで

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 わかってるよ。母さんの言ってることは。  もちろん理解できるし、それが常識だってこともわかる。  いくら都会の風は冷たいと言っても。いや、冷たいと言われるからこそ、近所付き合いは大切にしなきゃいけないってことも、わかる。  だから、はじめての一人暮らしで入ったアパート。  せめて隣の人には、引越し蕎麦のひとつやふたつ、お届けするべきだというのも、ごもっともなはなしだってことはわかるんだ。  そして見栄を張りた…もとい、崇高な心遣いから、母さんがちょっとばかり高級な蕎麦を用意してくれたことも感謝するべきなんだよね。  たださあ。  俺、全然知らないんだよ。隣にどんな人が住んでいるのかってこと。  男なのか、女なのかさえ知らない。個人情報云々の所為で、そういったことは入居前、なにも教えてもらえなかったからだ。  そう考えたら、なんか緊張しちゃってさ。  コミュ障ってわけじゃないけど、俺はどちらかというと、人見知りだ。  いくらお隣さんで、これから世話になるかもしれない人だといっても、知らない相手の家へ前振りもなく行くなんていうのは、はじめての体験だ。  だから、ぶっちゃけ、俺は少しだけ尻込みしてる。  もちろん行かなきゃいけないことはわかってる。  わかってるんだけど、それでもできる限り、先延ばしにできないかなあなんて。
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