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幸せを乞う人
誰にでも間違いがある。生きていればそれは避けられないことで必ず起こるものだと言ってもいい。
しかし人が間違いを犯すと大概は修正でき間違ったことを「無かったこと」にはできないが正しい方向に進むことができる。やり直すことができる。
ただ間違いの種類によってはやり直しがきかない、できなこともある。
それは人の心や体や命にかかわることだ。いくらやり直したいと思っても人の身体に障害を負わせるような傷を残せばそれは大きく医学が進歩しなければ治ることはない。心に何かしらのトラウマを残せばどんなに良い思い出を重ねても消えることはない。
そして何より命を犯してしまえばそれは二度と戻ることはないのだ。この先どんなに人の技術が進んでも同じ人がよみがえるなど起こる事はないだろう。
だが私は考えた。間違いを犯して人の命を奪ったのならその人はそれくらい「自分のことが大切」なのだそして「自分の幸せを守りたい」のだ。誰かの大切なものを奪ってまでそうしたのだからそれはそれで必死な決断だったのだろう。
私はそれに感動すら覚える。感心さえする。そこまでできないのは私自身が自分の幸せに必死になれていないのだと自覚さえさせてくれる。
間違いを犯してまで、人の命を奪ってまで自分のことを思っている人に私ができることはなんだろう。そんなにしてまで自分に価値があると思える人、人生とは一体どんなに尊い存在なのだろう。
私は知りたい。知りたい。知りたい。
どうしても知りたい。自分がその人にできることを知りたい。
社会人になってすでに6年目を迎える箱田ミエの生活はひっそりとしたものだった。
恋人は学生時代以来おらず友達はいないわけではないが定期的に会っている友達はいなかった。結婚や妊娠出産そして離婚などの大まかな近況報告はSNSで知ることができ、ある出来事を機に人がたくさん集まることが苦手になったので結婚式や同窓会に参加したことはなかった。
「箱田さんて美人なのになんで彼氏つくらないの?作ろうと思えばつくれるでしょ?」
冗談半分でそう言ってくる同僚や先輩は多くいた。ミエは特に着飾らなくてもそこら辺のタレントにおとらない容姿をしていた。それを証拠に月に一度は街で男性に声をかけられるし、大学生時代はスカウトをされたことも何度かあった。華やかな世界に憧れがないわけではなかったが自分はそんな世界に入るわけにはいかないと固く思っていた。もし入れたとしても過去の出来事を掘り起こされればたちまちまた、あの時のような状況になる。そうなれば今度こそ自分は人生を終えなければならないだろう。
自分の容姿に対してはある程度の自負はあったがそれをなるべく目立たないようにさせるために化粧は最低限に、服も流行りのものや派手な色は避けた。
それでも声をかけられるのだから贅沢で嫌味な悩みなのだろが、ミエには根強い呪いのように思えた。
どうにか高校を卒業してから地元を離れて遠くの大学に進学し特に名が知れていない会社に就職できた。昇格も昇給も見込めないただのOLだが物欲や食欲は無いので金銭面で困ることはなかった。親の仕送りもなく一人で生活できている。
ミエの現在の生活は必要以上にひっそりとしたものだ。平凡だがそれ以上にひっそりとしており誰も何も干渉されない生活だ。
目立たずに生活したい。ひっそりとこのまま人生を終えたいということがミエにとっての願いだった。結婚も子供をもつことも望んでいないのでとにかく このまま人生を終えたいと思っていた。
まだ若く平凡よりも優れた容姿をしているミエははたから見ればもったいない存在だ。何もしなくてもきれいでまだ若さもある。結婚がすべてではないにしてもあまりにも人生で捨てているものが多すぎる。
だがそれでミエはよかった。自分にはそれがお似合いだと思っているし自分は生きているだけでそれだけで十分なほどの幸せを手に入れていると感じていた。
あの出来事を機に自分の人生は決まっていたのだ。それは自分で決めてしまったことと言ってもいい。自ら招いた事態を今更変えることなどできない。
自分はこのままでいい。間違いを正すことなどもうできないのだからだったら、このまま何の変化もなく生きていけばいいのだ。
それが自分にはお似合いだ。ひっそりと生きることを決めてしばらくが経つ。
だがその生活に大きな波を立たせる事態が起きようとはミエには思いもよらなかった。
清算することができない過去と再び対面することになろうとは。
ひっそりとした人生が次第に崩れていき本当に本当の暗闇はここからなのだと耳元でささやかれることになろうとは思わなかった。
しかしその闇を理不尽だと言える権利をミエは持っていない。
今日も決まった時間に会社に行きメールを確認してからデータの処理をしていく。パソコンに向かうことがほとんどの仕事は苦痛ではなかった。同僚や先輩や上司とやりとりをすることが無いことは人と接することを極端に避けているミエにとってはうれしいことなのだ。
人見知りというわけではない。職場でないがしろにされているわけではない。単になるべく人と接することなく生きたいと思っているのだ。
「あ、箱田さんこれも頼める?」
「はい、大丈夫ですよ」
先輩から回されてきた仕事もなるべく表情を変えずに受け取る。
パーマがかかったロングヘアが特徴の女性社員の先輩は化粧が濃く口紅を輪郭を鋭く縁取り赤く塗っているので口裂け女のようだと誰かが言っていた。ミエもひそかにそう思ってるがこの化粧でないと彼女を表すのには逆に不自然だった。
ミエは会社では仕事が早い方だと言われている。入社当時はこの容姿のせいから陰で「結構かわいい子が入ってきた」などと下世話なネタになったいたらしいが過度におとなしいミエにすぐに周りは引いて行った。決してノリがいい性格ではない。飲み会にも忘年会や新年会以外ほとんど参加せず人付き合いが極端に悪いことで名が通るのは遅くなかった。
「まぁ、性格もあるし無理にとは言わないけどね。でも仕事を円滑に進めるためにももう少し社員の人たちと親しくなっても損はないよ」
やさしい上司はそう言ってくれる。そう言われること自体はありがたいが同時に余計なお世話でもあった。
最近の若者は極端に会社の人との交流を嫌う、と思われているのだろう。ある程度の親しみは必要だし感じよくしているほうが人間関係も円滑にすすむことはわかっている。
それでもミエは周りの人間と親しくすることはできなかった。
受け取った仕事を淡々と処理していく。すると仕事をまわしてきた先輩がまたやってきて「そうそう言い忘れていたんだけど」と高い声で言った。三十代半ばなのにこの先輩は年配の雰囲気があるしゃべり方をする。
「今度新人さんが入ってきてね。それがどうも中年の女性らしくて。事務経験はあるみたいだから使えるようなんだけど、教育係をお願いしてもいい?」
「え、私でいいんですか?」
本当は反射的に「私がですか?」と言いそうになっていた。だがそういうのは少し嫌味っぽいし感じが良くない。角を立てないことは大切だ。
ミエは会社の中でも若い社員の一人になる。6年目になるので後輩に仕事を教えることもしなければならないのは確かだが、人と関わりたくないがために今までどうにか避けてきていた。
だが勤続年数は上がるばかりなので避けれるのも時間の問題だということは充分承知している。いずれ後輩に教えなくてはならない時はくる。
それが来てしまったのだ。
ミエの喉は絞められたようにカラカラになった。水分がすべて胃のそこに落ちて口の中まで乾いていく。吐き出したいほどの緊張が襲ってきたが平静を装う。
「そう。普段は私がやるんだけど上からの指示でさ。そろそろ箱田さんにも新人育成に協力してもらわないといけないねってことでね。まったくの新社会人じゃないからやりやすいとは思うんだけど。基本的な業務を教えてあげるだけでいいのよ。年齢は箱田さんの親くらいの年齢の人なんだけど、感じのいい人だったしやりにくくはないと思うよ」
小声でそういう先輩。押し付けているわけではなさそうだ。いや、それはそうだ。ミエと同時期に入社した子たちは今まで数回新人教育を任されていた。 ミエだけが経験していなかったのだ。それは上司のはからいだ。
自分の親くらいと言えば50代半ばごろだろうか。仕事を教えるには確かにこちらが遠慮してしまうかもしれないがそれは向こうの性格にもよるだろう。 素直に自分が言うことを聞き入れてくれればいいが、「小娘が何偉そうに」と思われるのはいくら人付き合いを避けていようと愉快なことではない。
ミエは心の中で深呼吸をしながら自分を落ち着かせ「そうですか。わかりました。いつから働きはじめるんですか」と震えそうな声で聞いた。
どう伝わったかはわからないが真っ赤な口紅を付けた先輩は二カッと笑って 「よかった。詳しいことなんだけど―」と詳細を話し始めた。
本当は上の空になりそうだった。誰かと密接にかかわるなどこの6年間無くしてきたことだ。それがいきなりやってきたショックはどうにもならない。避けられないのだからどうにかして新人が慣れるまではやり過ごすしかないのだ。
そう言い聞かせながらミエはひそかに呼吸を整えた。
簡単な説明を受けた後に「じゃあ、よろしくね」と先輩は言い自分の席に戻っていく。覚悟を固めようとしていてもどうしても途方に暮れる気持ちになった。
長い社会人生活だ。避けていてもいずれは誰かと濃密に接する機会はくるだろうし、自分で起業しない限り組織の中で働くということはそういうことだ。 誰かと関わりを持たなくてはならないということだ。
仕方がない、仕方がないと口からこぼれるのを必死で抑えながらミエは先輩から頼まれた仕事を処理していった。
新人が入社したのはそれから二週間後のことだった。季節は初夏を迎えるころで新人が入ってくるにはかなり異例の時期だったが、経験者ということもあり違和感はない。
普段は挨拶だけ済ませる朝礼でその年配の女性社員はミエと同じ制服を着て、髪の毛は一つにまとめてやや恥ずかしそうに上司の横に立っていた。
「斎藤カオリです。よろしくお願いします」
見た目は先輩が言っていた通り50代半ばのようだが皺がとくに目立っているとは思えない。肌の手入れを入念にしているのかシミも特に見当たらない若い印象だった。ミエの母親とは年齢的には近いのだろうがミエの母親はもう少しやつれていて皺も多い。
髪の毛は染めていると思うが自然な艶がありきれいだ。もしもう少し年齢が若ければ受付嬢などをしていてもおかしくないだろう。
挨拶をしたカオリは愛想がいい笑顔をしていた。それに答えるように社員たちは拍手をして迎える。
「じゃあ、これからよろしくね。えっと、箱田さん。来てもらえるかな」
簡単に上司がその場を締めてミエが呼ばれる。社員たちはそれぞれ席についたり会議に向ったりしている中一人だけ違う行動をすることにとても抵抗があった。
はたから見れば特に特別な行動ではないがミエにとってはこうしたことさえ緊張しおびえてしまうのだ。
自意識過剰のせいなのかミエが上司とカオリのもとに向かう短い間、カオリはじっとミエに視線を向けていた気がしてならなかった。好意的ではない感情を向けられているのではないかと勘繰ってしまう。
震えそうな足でカオリの前に立つ。カオリはミエよりも10センチ近くも小柄だった。少し見下ろすようにしてカオリと目が合う。
「こちらは箱田ミエさん。斎藤さんの教育係です。私もいろいろ教えますが、まず何かわからないことがあったら彼女に。それでは箱田さんよろしくお願いしますね」
「はい。箱田ミエです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
カオリの声よりもミエの声の方がうわずっていた。端から見ればおそらく緊張しているミエのほうが新人に見られるだろう。カオリは緊張していると言ってもそれは仕事が始まる、ということではなく大勢のまで挨拶をしたからだという感じだ。
カオリは感じよく少しだけ頭を下げて笑顔を向けた。とても自分の親世代とは思えない人懐こい、無邪気な笑みだ。
ぎこちない動作でミエのとなりにある席に案内し仕事内容、注意点、休憩時間の過ごし方、ロッカーの使い方などの簡単なオリエンテーションをして早速仕事内容を渡した。
いくら新人といえど事務職をしていたのだからパソコンの扱いは慣れたものだった。タイピングも早くエクセルの使い方もスムーズだ。そこはやはり経験の差でミエよりも格段に仕事が早い。簡単な仕事から始めたがミエが半日かかる仕事を2時間で済ませてしまった。
その間にミエが教えたことはどこに提出するのかとコピー機の使いかただけだった。
まだお昼休憩の時間まで30分はあるのだがカオリがする仕事は今のところ無い。昼の仕事は昼に回ってくるというのがこの会社のやり方だ。だからとりあえず暇になってしまい、あと少しで自分の分の仕事が終わるミエの横でカオリは手持ち無沙汰になっていた。
「何かお茶とか皆さんにお配りしたほうがいいでしょうか」
世代的に女性が会社で任されていた雑務を本当にしようとする人がいることに驚いた。ミエはそう言われてどう反応していいかわからず「あ、えっと。大丈夫ですよ」と言って首を振った。
カオリが新人の頃は確かに男性社員にお茶を汲むのは当たり前、などと言われていた時代のはずだ。だが今そんなことをすれば完璧な男女差別でありパワハラ、モラハラなどに値する。
「そうですか。なんだか落ち着かないですね」
「今は時代が時代ですからね。そういうことはもうどこの会社でも教えていないと思いますよ。皆自分の分は自分で用意したほうがはやいですしね」
なるべく偉そうにならないように言う。雑談が全くないのも不自然だがこうして仕事以外の話をしているというのは落ち着かないことだった。
普段ならもっと短くすませるのにどうしてかカオリは話させる雰囲気を持っている。柔らかさというか、こういうのを包み込む感じというのか相手を安心させる空気を出すことがうまい気がする。
初対面なのに懐かしさを感じるというかそんな淡い気持ちにさせてくれるのだ。
短い時間で他人に対してこんな気持ちになるのは初めてのことだった。とくにこの6年間こんなに落ち着ける気持ちになったことがなかったので、ミエの心はゆるりと流れ出そうになっていた。
「はぁ。私が新人のころとは大違いだわ。そうなのね最近は」
カオリは感心したようにうなづいていた。大げさな感じの仕草をされると年相応で若々しさが少し薄れる。だがそれが妙に安心してされに愛想がよく見えた。
「ええ、そうですよ。事務職はされてずいぶん経つんですか」
他の社員の邪魔にならないよう小声で訊く。するとカオリは自分のデスクの周りの書類を整理しながら「はい。20代前半からしています」と言い「でも途中で結婚して子育てが始まってから少しブランクがありました。娘が小学生に上がったころにまた働き始めて。でも途中でちょっといろいろあって3年くらいブランクが空いたんです」と簡単な経歴を話し始めた。
「大変だったんですね」
会話を掘り下げることをしたくなかったのでそこまでに済まそうと思ったがカオリは続けた。
「娘が高校生の時に少しいろいろありまして。それでちょっと仕事をやすんじゃったんですよねぇ」
「高校生」という単語を聞いてミエは喉の奥がひゅっと締まった。いきなり後ろから首をしめられたような唐突さと恐怖だ。ミエは身を固くしてどうにか平常心を保とうとパソコンのキーボードで動いている手に意識を集中させる。しかし指先からその集中力は剥がれ落ちていく。それと同時に感覚がなくなり氷水にいれたよに冷たくなっていった。
「そう、なんですね」
ぎこちなく相槌を打つが心臓が嫌な音を立てて軋んでいた。
「ええ。あ、もしかしたら同じ年くらいかもしれませんね。私の娘と箱田さん。きっと同じくらいだわ。高校生の時にちょっと娘が大変になってしまって。それで私も仕事どころではなくなって―」
「斎藤さん!」
ミエの喉の奥から普段からは考えられないくらいの大きな声が出た。声の塊と言ってもいい。それくらい響く声だった。
部屋の中にいる全員がミエのほうを見ている。その瞳たちは明らかに意外そうにそして不審そうにしていた。
だがミエはそれにかまうことなくカオリと目を合わせずに言う。
「私語は控えめにお願いします」
うって変わって消え入りそうな声でそういうミエ。その中には懇願のような切実さも混じっていた。
しん、とした部屋の中で「ふっ」とカオリの口から息が漏れる。それは一瞬笑みがこぼれるときに出る吐息と同じだった。どうしてこんな時に?とミエはカオリに顔を向ける。しかしそこにあるカオリの顔は無としか言いようがなく、何も感じていないように見えた。
「すみません。気を付けます」
素直に謝るカオリ。ミエは何度かうなづいて「私もすみません。大きな声を出してしまって」と謝りそれからはまた自分の仕事に戻った。
昼休憩まであと十分だ。その十分の間は砂時計の砂が一粒ずつしか落ちないくらい長く、途方に暮れる時間だった。
それ以降カオリは注意されたとおり私語をほとんどなくし、だからといって愛想が悪くなっているわけではなく仕事を順調に覚えた。ミエに対する態度も変わっておらず「なんなんだこの子は」と思っているような節もみあたらなかった。どうやら素直に聞き入れてくれているようだ。
新人の教育期間はだいたい一年だ。カオリの場合は三か月と決まっていたが三か月も必要とは思えないほど容量が良かった。
前の職場でもさぞ重宝されただろうと思ったがどうしてたいして名前も大きくないこの会社に再就職したのか不思議なくらいだ。二週間も過ぎれば会社の中で少し気軽に話せる同僚もできたようで、ミエもカオリの存在をそこまで気にしないで済むようになっていた。
教育係を任されたときは頼られきりだったらどうしようと心配だったがそれはなさそうだ。最近ではわからないことがあれば他の同僚に聞いていることもある。それはミエにとってはありがたいことだった。
自分以外とかかわりを持ってくれれば自分の存在が希薄になる。そうなったほうがいい。早く必要最低限のやり取りしかない日常に戻ってほしいとミエは毎日願った。
その願いが届いたのか一か月も経てばカオリは殆どの仕事を覚えそして一人でいろいろと仕事を見つけては処理していた。すっかり会社には慣れミエ以上にミエと同期の子たちとも話す仲になっていた。
「この間かわいいカフェを見つけたんですけど、一緒に行きませんか?」
ミエの同期の二人組が仕事終わりに食事に誘っていたことがあった。
「あら、私みたいなおばさんを誘うの?最近の子は珍しいのね」
「おばさんだなんて思ってないですよ。斎藤さん面白いところあるし話しやすいし、いいじゃないですか」
なれなれしい感じで話す同僚だがそこに嫌味は見当たらない。友達のように誘っていた。
「あなたたちのお母さんくらいの年齢なのに」
「えー?そんなの別に気にしませんよ。あ、娘さんいるんですよね?娘さんも一緒にどうですか?私たちと同じくらいなんですよね?」
そう同僚たちが言うとカオリは一瞬だけ表情をなくした。ミエはそれを見逃さずその顔があの時の顔と同じだったことに気が付く。
同僚たちは気が付いていないようでそのまま話をすすめようとするが、カオリはいつもの朗らかな表情のまま言った。
「娘は、いま少し遠くにいるのよ。だから無理ね」
表情はいつものままだ。しかし声はあきらかに無だった。何も感じさせない踏み込ませない言い方だった。
その声を聴いた瞬間に頭の中で蓋をしていた記憶がつぎつぎにあふれてきた。厳重にフタをしていたのにいきなりあふれてくる現象にミエは恐怖しカオリから遠ざかろうとする。
距離を置いたところで話を聞いていたので気づかれていないはずだと思っていたが、ミエが一歩下がるとそれに合わせてカオリがじっと視線を向けてきた。
その瞳は心臓を直接刺すほどの嫌悪と憎悪が込められている。
「ひっ・・・・」
喉の奥から声が漏れた。ミエは慌ててその場から離れ自分の席について平静を取り戻そうと仕事に打ち込む。パソコンの文字をひたすら追って指を動かすことに集中した。
そこでふとミエは思う。
どうして自分はここまでカオリに対して警戒しているのだろう、と。学生時代の出来事をきっかけに人を避ける生活をしてきて、やっと平穏といえる日常を築いけてきた。普通という生活といってもいい日々だ。
そこにいきなり飛び込んできたカオリ。会ったときからどこか何かが引っかかっている。記憶の中で排水溝に流れそびれた一本の髪の毛のようにしぶとく引っかかる。
わからない。でも時間が過ぎていけば何か思い出すのかもしれないと、思っていたせいかミエは久しぶりに昔の夢を見た。
高校生時代の夢だ。今までに幾度となく見てきた。そして毎回全身から力が抜けるほどの後悔と償いきれないものの大きさを突きつけられるのだ。
夢の内容はいつも同じだ。
高校生の時の自分。そして今では連絡先すら知らないその時の友人たち。そしてもう一人。いつもいつも自分の視界に入れ一体今なにをしているのか把握し、何を思っているのかを想像して支配してやろうとしていた人物。
たった一人の同じクラスの女子生徒。いつも一人だった。いや一人にしたのだ。自分が。
頭に映るのはおびえた顔、泣き顔、そして絶望。
ミエ自身はそれを見てただただ笑っていた。
醜い笑顔だ。何度もスカウトされたなど嘘だと言えるくらい醜い顔になっていた。
夢の中で高笑いする高校生の自分。そして女子生徒の泣き顔。周りの友人たちの笑い声が響き遠巻きにそれを見ているそのほかのクラスメイトたち。
それは長い間続き、そして最後は必ずその女子生徒が学校の教室の入り口でぶらさがっているところで終わる。
そこで決まって目が覚める。今回も同じだった。同じ場面で目が覚め呼吸を乱してベッドから飛び起きるのだ。体中汗まみれだ。不快だがそれよりも込み上げてくる嘔吐感を逃がすことが優先だ。
ミエは急いでトイレに行き嘔吐した。一人暮らしだからいいものを、大きくえづきそして胃の底にたまっている胃液がでるまで吐いた。
落ち着いたころには自分の膝も吐しゃ物で汚れている。これもいつものことだ。気にすることなどない。
ぐったりとしてトイレにもたれかかってぼうっとする。過去の自分を戒めても今更何にもならない。
箱田ミエは高校時代同じクラスの女子生徒をいじめ、結果死に追いやった過去をもっていた。
過去の夢を見るたびに何度も高校時代のことを思い出す。
あれは高校一年生の時だった。たまたま同じクラスになったおとなしい性格の三上アイという女子生徒。友人がいないというわけではないが誰かと楽しそうに話しているという印象はあまりなく、教室の隅で読書をしているような目立たない生徒だった。
何がきっかけかははっきり覚えていない。どういうわけかミエはアイに対して何かとかまうようになっていた。友人を数名連れて。
ある日アイの机に菊の花を生けた花瓶を置いてみた。冗談のつもりだった。死を連想させるものを置いたらアイがどういう顔をするのか気になっただけだ。
怒るだろうかそれとも泣くだろうか。そんなことを言いあっては友人達と話していた。反応が楽しみでならなかった。
アイが登校してきた。教室に入ると真っ先に自分の机の上の異変に気が付いたようで一瞬目を見開いたが、その後静かに自分の席まで行くと花瓶をもって教室を出ていった。
音もなくとても自然な仕草にクラス中が見つめていたがアイは誰とも目を合わせることなく出ていき数分して手ぶらで帰ってきた。
花瓶は学校の用具室から持ってきたものだったのでどうやら戻しに行ったようだった。そして菊の花はもったいなかったのか、花好きの保健室の先生に渡したのだと友人を通して知った。
面白くないなと思った。ただ単純に。もっとちゃんと感情的になって反応してほしかった。そうすれば「冗談だよ」と言って近づくことができたのに。
大人になってから思えばこれが始まりだったのかもしれない。その日を境にミエは思いつく限りのことを実行していった。
体育がある日体操服を切り刻んでごみ箱に捨てた。
アイは困っていたがそれでも顔色をあまり変えず先生に体操服を忘れたと言って見学になった。
アイが席からいなくなった時を見計らって弁当を机の上にぶちまけた。
アイは困っていたがそれでも顔色を変えずその日は昼ご飯を食べずに過ごしていた。
トイレに入ったところ見計らって個室の上から水をかけた。
アイは困っていたが持っていた小さなハンカチで大まかに全身を拭うと、体操服に着替えてその後の授業を受けていた。
廊下で歩いているときにアイの足をひっかけた。アイは転んで足にあざを作った。
アイは困っていたが痛みにたえるだけで何も言わなかった。
筆箱を隠した。靴を捨てた。一部の髪の毛をハサミで切った。制服のスカートを切った。
いずれもアイは困っていたが何の感情も出さずにミエのことをじっと見ていた。
何にも反応しないな。何か言えばいいのに。教師にも相談しない。家族とかどう思っているんだろう。そんなことを頭の隅で考えていたがミエはアイに対する仕打ちをやめなかった。
そして何の前触れもない、今日もアイに何かしてやろうと考えていたある日のことだった。
ミエが登校すると教室の周りが騒がしかった。それは今までに体験したことがないあまりにも異様な、不気味な様子だった。
誰かが喧嘩でもしているのか。それとも誰か何かをしているのだろうか。そう思っていたがちらちらと生徒たちがミエに視線を向けてくる。
その視線はチクチクと体中を刺し居心地の悪さを一気にミエに与えた。
一体何なんだと教室の入り口に行くとそこにアイがぶら下がっていた。
ミエはそれを見てどういう状況なのか把握できなかった。アイがぶら下がってふざけているのかと、ついにおかしくなったのかと思ったが違った。
ぶら下がっているのではない。アイが首をつって死んでいるのだ。
何も見ていない瞳でアイは自分の足元よりももっと下の方を見るようにぶら下がっており、小柄な体は風もないのにゆらゆらと小さく揺れていた。
ミエはアイをただ見ていた。そして足元から崩れ落ちるような絶望感をその時人生で初めて知った。
その後教師と警察、そして救急車がやってきて最終的にはテレビ局もやってきて世間的な騒動になった。学校はその瞬間から急遽休校になりそしてその週はまるまる全校生徒休みとなった。
ミエは呆然としたまま友人たちと帰宅した。何を話したのかお互いにどんな顔をしていたのか全く覚えていない。
ただ家についてからは親から「大変だったね。一緒のクラスの子らしいじゃない」などと他人事のように話し、テレビでもアイが自殺したことについて次々と情報を流した。
○○高校の生徒が自殺した。原因はいじめ。遺書にはいじめにかかわった生徒たちの名前が複数記名されている。
「いじめにかかわった生徒たちの名前が複数記名されている」
ニュースでそれを知った瞬間にミエはリビングで吐いた。
一週間学校は休校だったがミエを含めアイのいじめにかかわっていた生徒は学校に呼び出された。もしかしてテレビの関係者が学校にいるのではないかと思っていたが、そんなことはなく学校は死んだようにひっそりとしていた。
ミエは両親と学校に行ったが、両親は遺書にミエの名前が書かれていたことは何かの間違いだと思っていたようだ。
「あなたの名前があるなんて。まったく迷惑ね」
母親はそう言ってアイが死んだ日から青い顔をしてすごしているミエに全く気が付いていなかった。自分の子供がいじめをするわけがないと信じてやまないのはミエに対して愛情が深いというよりも「自分の育児は間違っていない。自分が育てた子なのだから誰かを陥れるなど絶対にありえない」という自分中心の考えがあるからだ。
ミエ自身のことなど見えていないのだ。母親には。
一方父親は無関心だった。ミエに対しても自分の子育ては完璧だと思いたい妻に対しても視界に入っていなかった。
どうして結婚をしたのかわからないがきっと父親にとって結婚をし子供を持つことは人生の段階的なもののひとつにすぎないのだ。毎年年齢をかさねるのと同じくらい、特別なことではないのだ。
学校についてからミエの担任教師、教頭、校長を含めて話をした。場所は進路相談室で他の生徒もまざって話をするのかと思ったが、生徒ごとに分けての面談だった。
内容は思っていた通りだった。
アイが残した遺書にミエの名前があった。そして他の生徒の名前もあり事実を確認したいから呼び出した、と。
話の席になると母親は待ってましたとばかりに抗議をし、父親は黙ったまま教師を見据えそして横目でヒステリックになっている妻を見ていた。何を考えているのか全く分からなかったがミエにも妻にもそしてアイが自殺したことに関しても関心がないのだということだけはわかった。
「落ち着いてください。まずは娘さんのお話を…」と校長が切り出してもそれを遮って「話もなにも関係ないんですから」と母親は続けた。
ミエは当事者でありながら何も言うことはできずただ黙って座り、自分が取り返しがつかないことをしたのだと頭の中で何度も繰り返した。
その日は話にならなかった。聞けば聞くほど母親の感情は爆発を増すばかりでまったく取り合わない。父親も父親で「学校でのことはよくわからないので」などとミエが予想していたとおりの答えを言った。
ああ、駄目だ。ミエは絶望していた。
どれくらい母親が否定をしても父親が無関心でもミエがアイの死にかかわったことは間違いない。消えることができない事実はいずれ突きつけられることになる。
そしてそれは学校で面談があった次の日に現実のものとなった。
私が言葉を発しなくても他の生徒からすべての事実が明らかとなり、そしてそれはネットで拡散され次の日からよくテレビで観るようにマスコミが家までやってきた。休校になっていたが学校にも多くのマスコミがやってきていたようだ。
二階の自分の部屋から玄関に群がっている記者たちを見たがまるで現実味がなかった。ああ、本当にこんなことが起こるのかと他人事のように見下ろしカーテンを閉めた。
そして勉強机につき携帯開いてアイを一緒になっていじめていた友人たちに連絡を取ろうか考えた。しかしすぐにやめた。そんなことをしてもきっと電話には出ないだろうしメールをしたとしても一体何を書けばいいのだと疑問が浮かぶ。
一週間くらい朝晩かまわずひっきりなしにチャイムが鳴る。そして電話も鳴り母親ははじめのうちは玄関に出てミエの無実を訴えていたがそれはあまりにも滑稽だった。
「うちの娘は関係ありません。他の子たちが何を言ったのかわかりませんけど、あんなの嘘に決まっています」
そう何度も訴えた。しかしそんなことは記者たちにとっては嘘だということはわかっている。だから冷静を装いつつどこか楽しそうに聞いてくるのだ。
「自殺した生徒の遺書には箱田さんのお名前があったそうですが、何かトラブルがあったのでしょうか?」
「ですから、ありません!」
「一方的にいじめていたと?箱田さんの家庭環境が劣悪だという情報もありますが、旦那様が浮気でも?それとも奥様が?」
「何を関係ないことを言っているんですか!そんなことはありません。家庭環境は良好です」
「では娘さんのミエさん自身に何か問題が?精神的に参っていたなどなにか支障があったのでしょうか?」
「ミエはいたって健康です!」
「自殺した生徒に何か言うことはありませんか?ミエさん自身からも何か聞けたらいいなと思っているのですが」
「ミエは関係ありません!はやく帰ってください。こっちが被害者ですよ!こんな騒ぎを起こされて!」
マイクやボイスレコーダーを向けてくる記者たちはまるで仮面をつけているように皆同じ顔をしていた。目からは感情がうかがえない。それなのに口元はかすかに笑っている。その隙間からでてくる言葉たちは誰の味方でもないものだった。ただただ自分たちが得をする情報を得ようとするものばかりだ。
はじめは否定していた母親もどんどん病んでいった。口数が減り目の周りは真っ黒になり対照的に白髪が一気に増えた。頬はこけ家事がまともにできないので水一滴落ちていなかった台所もあっという間にカビが目立ち始め、洗っていない食器がひしめいていた。洗ったものなのかまだ洗っていないのかわからない衣服が場所を問わずあり、買い物にもまともに行けないので冷蔵庫の中や常備していたインスタントもすぐに底をついた。
住んでいる人が生きる気力をなくせば家もどんどん死に向って行っているようだった。
それなのに父親は毎日変わらない生活をしていた。同じ時間に仕事に行きそして同じ時間に帰ってきた。
記者たちは父親にも話を聞こうと群がっていたが父親は顔色一つ変えず、鈍らない足取りで仕事へ向かっていた。それは異様だった。後から思えばあの時の一番の異常者は父親だったのかもしれない。
変わらない生活を自分だけが続けていた。いくら強靭な精神をもっていようと毎日世間にさらされれば気が滅入るものだ。だがそれを微塵も感じさせない父親は記者以上に感情がなかった。
それに気が付いたのか父親が出勤しても、帰宅してきても記者たちは父親に群がることはなかった。空気のようになっていた。
この人はきっと自分しかないのだ。妻や娘がどんな状況になろうと自分の生活を乱すことはないのだ。自分自身に問題がない限り。
しかしそんな父親でも何か思うものがあったのか帰宅してきたときはコンビニ弁当を三人分買ってきてくれていた。
買い物ができないせいでこのまま飢えるのではないかと思ったが毎日唯一のまともな食事がそれだったので報道が落ち着くまでどうにか過ごすことができた。
二週間くらいの出来事だったが本当の困難は、地獄はそれからだった。
学校が再開したがミエ以外のアイのいじめにかかわっていた生徒全員が家を引っ越し転校していた。クラスには空席が目立ち他の生徒はいるもののミエの周りには誰もよってこなかった。
すがるような気持ちで転校した全員にメールを送ってみたが返信があったのはたった一人だった。それも文章はたった一行。
「もう、終わりだから」
短いその一行にミエは本当にひとりになったのだと悟った。
小説やドラマではいじめ加害者は今度は自分がいじめられるという末路をたどるのだろうが、ミエにはそんなことは起きなかった。普通に学校に行き普通に授業を受けた。
何もなかったのだ。何も。それはどういうことかというとミエ自身がクラスの中では存在していないことになっていたのだ。
クラスの全員がミエを見えないものとして、空気としてあつかっていた。
話しかけてこなければ目も合わせてこない。何もない。何も起こらない。
無視をされているわけでもないのに独りでミエは残りの高校生活を過ごした。時間だけがしらじらしく過ぎていくような期間だった。
毎日登校するのに記憶があいまいで一体何が起こったのかわからず過ごすばかり。進学を希望していたがミエのような問題を起こした生徒を受け入れていくれる大学はなかった。
ミエの成績は悪くはなかったが関係なかった。それもそうだ。一人の人間を死に追いやり世間を騒がせた人間だ。たとえ内密に受け入れてくれたとしても何かの拍子でミエの存在がばれれば世間からのバッシングは避けられない。そうすれば大学の存続に関わる。
「まぁ、箱田さん自身にもいろいろ思うことがあったんだろうけどな。でもこういう結果になったら、ちょっとな」
進路相談の時に担任教師はそう言った。生徒の自殺があったというのにこの担任教師はわりと冷静な毎日を送っているようで、変化が見られなかった。生徒をぞんざいに扱っているわけではないにしても、この人にとっては生徒は店で言う商品のようなものなのかもしれない。
店の商品は日々入れ替わる。新しいもの古いもの、様々な種類がある。そして今回その中の一つが予定外にいなくなっただけ。たったそれだけのことなのかもしれない。
異常な人間ばかりだ自分の周りには。いやそれは自分もか、とミエは大人にまともを期待しなくなった。
受験すらできない状況にもう進学は無理だと、ミエは一旦働くことを考えたがそれもそれで無理があった。近隣の企業に就職することはまず無理だった。かといって県外に出て働くという選択も難しい。まず一人暮らしをする資金がなかった。そしていくらまともな大人がいない家でも離れて生活する自信はなかった。
それに仕事をするということにまだ覚悟が決まらなかった。社会にでる自信がなかった。
仕方なく一年浪人をしてどうにか自分に見合ったレベルの大学に進学し、そこで新しく人生を始めることにした。県外の大学だったのでミエのことを知っている人はおらず丁度よかった。
しかし大学に進学する少し前から家に嫌がらせのようなことがいくつかおこった。
嫌がらせのようなもの。はっきりと断定できないところが余計に気持ち悪いものだった。
内容は大学の受験勉強をしているときに送られてきた匿名の手紙だった。
今まで「人殺し」や「死ね」「人間の屑」「生きている価値も意味もない」などといった手紙が送られてきたことはあったが、その手紙の内容はミエを励ますようなそんなものだったのだ。
「箱田ミエ様。いきなりのお手紙失礼します。大学受験をするという噂を耳にしましたので応援のメッセージを送りたく、手紙を書くことにしました。今までいろいろなことがありましたがどうかご自分の人生をより充実させるためにも受験勉強に励んでください。きっといい結果が待っていると信じています。お体にお気をつけて」
気味が悪いほどの丁寧な内容のその手紙は警察に届けようと思ったが、別に脅迫をしているわけでもないしパソコンで書かれているため筆跡鑑定もできないだろう。それに消印がなく家のポストの直接入れたようだった。
おそらく近所の人、もしくは学校関係者。それかアイの関係者だ。
考えたが答えはでずそういった励ましの手紙は受験が終わるまで月に一回のペースで届いた。どれも前向きな言葉ばかりでミエ自身どこか勇気づけられている部分があった。
「気味が悪いのは悪いけど、でもあなたのことを応援してくれる人がいるってことはいいことよね。よかったわね」
少しずつ回復している母親は不気味に思いながらも前向きにとらえミエの進学を見守っていた。父親は相変わらずだが進学資金を手伝ってくれるとも言ってくれているのでミエにとってはありがたいことだった。
自分は間違ったことをした。反省もしているし罰もまだ受けている。でも新しい人生を始めたい。自分の人生を生きたい。とただの自分勝手な気持ちだ、甘えだと思いながらも受験に取り組み合格したのだ。
大学に進学してからは本当の意味で人生が楽しいと思えるようになった。アイをいじめていた時とは違う友達と何気ない話をしているときや、テスト勉強に励んでいるときなど一秒一秒が尊く感謝すべきものだと思わせてくれた。
自分には恋をしたり恋人を作る資格はないとも思っていたが一度だけ、サークルの子と付き合った。一年にも満たない期間だったが恋人とできる大体のことは体験することができた。恋人とは自然消滅してしまったが、それでもミエにとっては満足がいく出来事ばかりでうれしさが込み上げた。忘れていた感情がふつふつと沸き起こってくるようだった。
ああ、自分は今楽しんで生きている。過去はどうであれこういう風に自分も生きることができるのだとミエはアイの出来事を清算できるのではないかと希望を持った。
しかしその希望は目前にして破られる。そんな瞬間が訪れた。
それは大学四年生の時いきなりその出来事はおこった。
通っていた大学には急遽講義が休みになったり、講義の部屋が変更したりするときに知らせる紙を張り出す掲示板があるのだが、その掲示板に不審な文章が張り出された。
はじめのうちは通り過ぎていた学生たちだったが張り出されていた紙の色が赤だったということもあり、目に留まり話題になるのはそう時間がかからなかった。
「なにー?これ。いたずらかな」
「それにしてはなんだかリアルじゃない?もしかして本当のことなのかも」
友人たちがそう言って掲示板の前で話していたのでミエもそのわきからその赤い張り紙を見た。
文字を見た瞬間に呼吸が石のように重くなった。固まった空気が肺に貯まっていく感覚だ。
その不吉な色をした張り紙にはこう書いてあった。
『この大学の四年生の女子生徒の中に人殺しがいる。高校時代にある女子生徒を殺した。気をつけろ。彼女はすぐそこにいる。私だけが見ている。決して目を離したりはしない』
忠告とも脅迫ともいえるその張り紙にミエは真っ先に自分のことだと思った。自分のことに間違いないだろう、と。
顔からすべての血液がなくなったかのようにぼうっとする。そして胃の底から吐き気が込み上げ、あの日見たアイの亡骸が脳裏をかすめた。
ミエは慌ててその場から離れてトイレに駆け込んで嘔吐した。あの頃のことを思い出すと吐くことは癖になっている。記憶のすべてを吐き出してしまえば楽なのだろうがそうはいかない。
トイレの個室でえづきながら肩で息をして一体誰が自分のことを見ているのか、考えを巡らせた。
一体誰なんだろう。この大学に進学したことは身内しか知らない。もしかしたらうわさで同級生が知っているかもしれないがわざわざこんなことをする人物など思い浮かばなかった。
一体誰が。誰が一体。
その赤い張り紙は事務員によって破棄され「いたずらだろう」ということで済まされた。特に問題視されることはなかった。
ミエ自身も問題視してほしくなかったので助かった。このことが話題になり自分がやったことがばれるかとも思ったが、情報があふれる時代を逆に幸いと呼ぶべきだったのか張り紙の内容を信じる者はいなかった。
ただ残りの大学生活をおびえながら過ごすことになった。また変な張り紙が張り出されて今度は自分の名前が記されているのではないだろうか。すべての過去をばらされるのではないだろうか。
そんなことばかりが頭の中をかすめ卒業論文になかなか集中できない期間もあった。
ここでダメになっては地元を離れて進学した意味がないと最後は気力で乗り切りどうにか卒業が決まったときは全身から力が抜けた。
どうにかやり遂げたのだ。過去に支配されることなく大学生活を終えることができ卒業式では一番泣いた。
過去にとらわれることなく生きたい。ひっそりと生きてそして普通の生活の中で死にたい。
そう願いながら社会人生活を送り自分の過去については話さずに過ごしていた。だがそれも綱渡りのように慎重にならなければ保てないものだと知ることはそう遅いことではなかった。
社会人になりたてのころは話のネタとして学生時代はどう過ごしたかということを訊かれる機会は多々あった。多くは大学生活の話を聞きたがったが中には高校生活のことを話題にされることもあり、その時はまた吐き気が込み上げていた。
話したくない。この場から逃げてしまいたい。そんな気持ちばかりがあった。だがいきなり離れるわけにもいかず「普通の高校生でしたよ」とか「クラスではあんまり目立たない存在でしたよ」などと言ってやり過ごした。それに過去を知られないために人とのかかわりを必要最低限にして過ごした。
友人はまず必要ないし結婚はもう望めないだろうから恋人もいらない。もし男性にやさしくしてほしかったらそういう店を利用すればいい。
そうやって生きていこう。そう決めて生活していた。
今までずっと。
過去にフタをして生きていきたいがたまに夢となってあふれ出してくる。それは呪いと同じだ。
仕方がない。そう思いつつもミエは足かせが付いた生活からどうにか抜け出せないかという思いを抑えられずにいる。
夢を見た日はあまりにも吐き気き気が収まらずミエは仕事を休んだ。何かを考える力は全く湧いてこずただベッドに寝転がってニュースを観たり気を紛らわすために興味の無いドラマを見て過ごした。
食欲はなかったので何も食べず時々お茶を飲み、自分の中が空っぽになっていくのを待った。
このまま記憶もカラになればいいのになぁと思っていた。このまま全部がカラになったらどんなにいいだろう。
そう思いながらその日をつぶしていると夕方の時間になって玄関のチャイムが鳴った。
ぎょっとして玄関の方を見ると同時に「すみません。あの、斉藤です」と控えめな声がした。
斎藤。斎藤とはカオリのことだろうか。鈍った頭でカオリの顔を思い浮かべるとどうしてか収まっていた吐き気がまた込み上げてきた。
「すみません、お休みなのに。その届けたいものがあってきました。会社からの資料なんですけど」
「あ、はい」
会社からと言われるとどうしてカオリがここに来たのか納得がつき、ミエは身なりを少し整えてから玄関を開けた。
ゆっくりとドアを開けると「すみません、本当に。お休みなのに」と申し訳なさそうにカオリが言った。カオリは私服を着ていたのだがそれがとても地味な色合いでいくらミエの母親と同じくらいといっても地味すぎるものだった。
カオリが手にしている封筒よりもやけにその色合いが目についた。
どうしてかイライラしいていた。
「大丈夫です。ありがとうございます、わざわざ」
心にもないことを言った。乾いた言葉はカオリに届いたのだろうか申し訳なさそうな顔を再度して、そして封筒をミエに渡してきた。
「これ、会社の書類です。連絡先の変更がないかどうかの書類で急ぎみたいだったので届けに来ました。明日は出勤できそうですか?」
「ありがとうございます。ええ、だいぶ体調も戻ったので。明日は行けますよ。すみませんでした。失礼します」
ミエはそう言って早々とドアを閉めようとした。閉めようとするとガンっと大きい音がして、何かが引っかかる感覚があった。ふと下を見るとカオリ足が挟まっていた。
別に不審者が来ているわけではないのにぎょっとして一瞬ミエは固まった。そんな行動をとる意味がどこにあるのだろう。明らかにおかしいと思いながらも閉めるわけにはいかず、再度ドアを開いた。
カオリは特に顔色を変えることはなくにこやかな顔をして今度はビニール袋を差し出した。近くのコンビニのもので透けて見えるのは最近話題になっているスイーツだった。
「ごめんなさい。さっきそこのコンビニによっておいしそうだったから買ってきたんです。よかったらどうぞ」
本心ではいらないなと思った。甘いものは好きだが食欲はまだわかない。とはいっても賞味期限はあるだろうから食べるのは今日でなくてもいいだろう。
「ありがとうございます。気をつかっていただいて、すみません」
礼を言って受け取る。手にしたビニールはとてもカサカサしていた。持ち手のところが皺だらけになっていて必要以上に握りしめられていたようだった。
「いいえ、お大事になさってくださいね。娘と年齢が近いせいか箱田さんは職場の先輩ですけど、なんだかかまってしまうんです。すみません、驚かせて。失礼します」
「ああ、いえ。ありがとうございます」
ミエがそう答えると今度こそカオリは去っていった。カオリは最後まで愛想のいい表情を変えることはなく、足をドアに挟まれたというのにそれをまったく気にしていないところが不気味に思えた。
玄関のカギを閉めてミエはビニールの中にあるデザートを見る。何かにぶつけたのかそれとも歩いている衝撃のせいなのか。デザートのデコレーションである生クリームがカップの蓋にべっとりとついていた。
たった数分他人にあっただけだがひどく疲れた。脳が頭蓋骨にもたれかかっているように働かない。機能しない。
カオリのことが苦手だなと思っているからだろうか。足元が暗く見えるほど気分が重くなっていた。
漠然とした気持ちでデザートを冷蔵庫に入れなくてはと部屋の奥に行こうとすると郵便受けに白い封筒が入っていることに気が付いた。カオリが来た時にはなかったはずだが、一体いつ入っていたのだろう。音がするはずだが気が付かなかった。
何かの案内かそれとも請求書か心当たりがないが封筒を手に取ってみてみると、切手も住所も書いておらず真っ白なままの封筒が異様な空気を発しながらそこにあった。
一体なんだろうか。町内会のお知らせかとも思ったがそれなら何か封筒に書いてあるはずだ。
不気味に思いながら開けてみるとそこからはパソコンで書かれた手紙が一通入っていた。規則的に並ぶ文字は仕事で見慣れているはずなのに気味が悪い。そして目を通すと髪の毛の先から血の気が引いていくのを感じた。
そこに書かれていたのは機械なのに親しみがある文字で、懐かしく妙にミエのことをわかってくれているものだった。
『箱田ミエ様 突然お手紙を再開してしまい大変驚いていることでしょう。申し訳ございません。ですがずいぶん年月が過ぎ大学を卒業してからのあなたがどうしているのかとても気になり、こうして連絡を取らせていただきました。社会人になりずいぶんすぎますが慣れたでしょうか。一人暮らしは大変なことと思います。ですが今幸せでしょう?』
ミエはそこまで読んでこれ以上読んでは駄目だと本能的に思った。とても不吉なことが書いているに違いないと文字たちが言っている。
滑り落ちそうになる手紙を必死で指で支え、続きを読むと全身が締め付けられるほどの衝撃を受けた。
『だってあなたは誰かの命を犠牲にしてでも守りたいと思った人生なんですもの。だから今幸せですよね?高校時代の同級生である三上アイを覚えていますか。覚えていますよね。あなたが必死で排除した人間なんですから。そしてあなたはついに自分の人生を守ったのです。そして今があるのです。幸せでしょう。その幸せのお手伝いを私にもさせてくださいね。あなたのことをいつも見ています』
そこまで読んでミエは足の力がすべてぬけその場に座り込んだ。脳みそが完全にしぼんでしまい考えるということがまるでできないでいた。
これはきっと大学受験の時に着ていた手紙と同じ差出人だ。そうに違いない。そしてその人物はアイの関係者。家族か友達か。
まだ自分は過去を清算できていない。そもそも清算しようとしていたことが間違いだったのか。私は間違いを正すことができない。
その手紙は遠回しに言っているのだ。
『あなたを許すことなどない。一生見張っている』
気が狂いそうだ。手に入れた平穏はあっという間に崩されたのだ。今度こそ自分は崖に立たされ飛び降りる覚悟を持たなければならないのかもしれない。
ミエはその日から厳重にカギを閉め買い物も必要最低限にして、仕事以外の外出をしないようにした。こういう時親しくしている友達がいなくてよかったと思った。どこにも誘われることもなく、連絡もなく過ごすことができるのだから。
手紙はその一通きりで今のところ新しく手紙がくることはないが、それがまた不安をあおりミエの神経をすり減らす。こんなことなら毎日手紙が来たほうがまだいい。いや、それも気が狂って死んでしまいたくなるかもしれない。
何もないことも恐怖。何かがあっても恐怖の日々は淡々と過ぎていきある日、それは唐突に結果をみせることになった。
手紙が来てから一か月くらいが過ぎミエは明らかにやせ細り覇気がなくなっていた。もともと溌溂とした性格ではなかったが周囲の人間は心配していた。
「何かあったのか」「病気でももっているのか」といったことをこっそりと聞いてくるが、ミエは「大丈夫ですよ」と答えるしかなかった。自分の過去など口が裂けても言えない。本当にそう思った。口が裂けても言えない。何があっても言えない。
心配してくる中にはカオリも入っており毎日ミエに話かけてきた。
「大丈夫ですか?何かお仕事で手伝うことはありますか」
そういった気遣いを見せるときもあれば昼食時に自分で作ってきた煮物や揚げ物を「作りすぎたから」という理由でくれることもあった。
その味がまたなんとも言えない懐かしさをミエに与えてくれた。決して自分の母親の味だというわけではないが、手料理というものを当分味わっていないせいもあってか食欲がなくても食べることができた。
だが気持ちはいつも暗いままでミエはどうしたらいいのかわからないままの生活をそれからさらに一か月続けた。
「本当に大丈夫ですか?何かあれば言ってくださいね。本当に。全然親しくはないですけど直属の後輩なんですから」
おどけている口調でカオリがある日そう言った。ミエはますますやつれていたせいだ。
まともに食事ができないから肌は荒れ、髪の毛は艶が完全になくなっていた。目元は落ちくぼみ唇はリップを塗っても乾いて荒れた。仕事はかろうじてできているものの集中力が欠けているせいか、今までにしたことがないミスをよくするようになった。
見た目は下手をすれば四十代に見えなくもない。自分でもそう思った。ひどい顔をしていると。芸能関係のスカウトを受けたことがある過去をもつとは到底思えない。
カオリの申し出にミエは力なく微笑んで「大丈夫ですから」と答えていたが心の中では何かに誰かに救ってほしくて仕方がなかった。
そしてある日事件が起こった。
いつものようにミエが出社すると自分のデスクの周りに同僚や上司が群がっていた。その光景は異常で今までに経験したことがない妙な熱気を感じた。
「おはようございます」
自分のデスクに群がっている背中たちにそう声をかける。すると一斉にたくさんの目がミエの方を向き、好奇心や恐れそして嫌悪が入り混じった感情が一気に向けられた。
「あの、どうか?」
戸惑いつつミエは人の群れの隙間から自分のデスクの上を見た。するとそこには紙があり、そこにパソコンで書かれた文字が並んでいた。
『箱田ミエは人殺しだ。気をつけろ』
ミエはたちまち眩暈を覚えた。だが倒れることはなかった。それは恐れていたことが現実となりあまりにも衝撃が強すぎたからだ。
現実と受け止められないその場をミエはいつものようにデスクにカバンを置いてパソコンを開くということで過ごした。
ミエに道を開ける社員たちの目はあきらかに何か言いたげだったが、誰もミエに声をかけるものはいなかった。
それから異様な沈黙が流れたが散り散りにそれぞれの仕事につきはじめ、その場は収まった。
空気は明らかによどみ、時々意味ありげにミエに視線がむけられ吐息だけが聞こえる程度に社員たちは何か話していた。
大概は見当がついた。想像するだけで足が震えたがここで逃げては自分で認めているようなものだ。そう思われれば二度とこの会社にはもどってこれないだろう。日常を取り戻すことはできない。
それだけは避けたかった。守りたいものの一つだこの場所は。
この日常を守るためにも何も考えずただ仕事を処理していくことだけを優先して過ごした。そしてどうにか定時を迎える。
定時になると同時に上司に一度呼ばれた。
応接室に入り座ることもなく上司は心配そうにそして言いにくそうにしながらミエに尋ねた。
「朝の紙のことなんだが、あれに心当たり、いやその、ああいうことをする人物に心当たりはあるかい?」
きいてくるのは紙に書いてある内容ではない。まぁそれもそうだろうと冷静な部分の自分がそう言った。人殺しなの?と聞いてくる人間はそういないのだから。
「ありません。あんないたずらをする人。私もショックです」
「ああ、そうだろうねぇ。いや、参ったな。こういうことは初めてだから私も対処がどうしたらいいのかわからないんだ。ただ、こういうことがないように社員たちのことはよく見ておくから。その、なにかあればすぐに言ってほしい。すぐに相談を」
「はい、ありがとうございます。いじめられているとかではないので。ご心配おかけしました」
「ああ、いや。本当にね、びっくりしてしまったね」
上司も何をどう言ったらいいのかわからないのだろう。そう言ってその場は収まりミエは呆然とした気持ちで帰宅しようとした。
デスクの整理をしてカバンを肩にかけると「おつかれさまです」とカオリが声をかけてきた。カオリはすでに身支度を済ませておりあたたかく微笑んでいる。日中の仕事の疲れを感じさせない。
「はい、おつかれさまです」
返事をするが空気がはいっていない風船のようにその場に落ちる。
気の入っていない返事にカオリは心配そうに顔をゆがめた。
「私は気にしていないですよ。今朝の紙のこと」
あまりにも直球な言い方だったので逆にミエの方が戸惑ったようにカオリを見つめる。それは他の社員も同じで一瞬異様なものをみる目でカオリを見つめ、すぐに視線をそらした。関わりたくないということだ。
遠慮なく今朝のことを言うのでぎょっとしたがカオリがそう言ってくれてもあまり安心感はない。ありがたいとも思わない。
「ええ、すみません。迷惑をかけて」
「迷惑じゃないですよ。本当に、気にしてないですから。だって・・・」
小さな声でそう言い語尾はミエにしか聞こえないくらいの声量で、もっといえば唇しか動かしていないふうに言った。
『だって本当のことじゃないですか』
「え」
ミエは驚くこともできずただ言葉がなくカオリを呆然と見つめた。表情には驚きも嫌悪もなかったと思う。すべての筋肉が停止していた。
「すみません引き留めて。お先に失礼します」
ただそこで息をしているだけのミエを置いてカオリは他の社員にも挨拶をしながら帰宅していく。その後ろ姿は優雅で平凡でどこにでもいる会社員のものだ。それなのにミエにとっては異形の者のようにただひたすらに不気味だった。
この人は何かを知っている。自分の過去を。そしてもしかしたらこの人は。
ミエは数分間その場を動くことができず立ち尽くしていたが同僚が「あの、大丈夫?」と声をかけてくれたことで、何かが切れたようにカオリの後を追った。
何を知っているんだろう。一体何を知っているんだろう。私の過去をどこまで知っているんだろう。まさか、まさか斎藤カオリという人物は。
ミエは会社からでて走り出し会社の前にある横断歩道を渡った先にカオリの姿をとらえた。
「あの、斉藤さん!」
ミエは走る。
その時ちょうど歩行者用の信号機が赤に変わった。しかしミエには見えていない。それどころではなかた。
ミエが横断歩道を中間まで走り抜けていると今までに聞いたことがない高いクラクションが鳴り響く。その音はその場にいるすべての人が聞きすべての人がミエを見ていた。
数秒もしないうちに鈍く大きな音のあとにミエの身体が宙を舞う。持っていたカバンはなげだされ、ミエ自身もまるでごみのように道路の隅に飛んだ。人間とはこうもよく飛ぶものなのかと妙に冷静な自分がいて、温度がない道路に横たわったまま起き上がれない。
まわりからは悲鳴や怒声にも似た声が沸き起こり、数人がミエに駆け寄ってきて声をかけてきた。
しかしミエはかけてくれる声にこたえることもなく、体の痛みや頭から流れる血を感じながらもわたりきれなかった向こうの歩道にいるカオリを見ていた。
カオリもこちらを見ていた。
目が合っているということは周りの人間は気が付いていない。二人だけの視線の中でカオリは無表情だった。
しかしそれからどんどん顔がゆがみついには満面の笑みになり、そして口が裂けるのではと思うほど大声で笑った。
ミエはそれを見届けて意識をなくした。それ以降のことは覚えていないというよりはどうやっても埋めようのない空白の期間で、脳にぽっかりと穴が開いたようなものとなっていた。
目が覚めた時は病院だった。体は当然のように動かず指一つ動かすどころか表情一つ作ることができなかった。
動くのは眼球だけ。白い天井を見つめ目がとらえることができる範囲で自分がいる場所の確認をした。
自分がいるのはベッドの上でクリーム色や白色やらが基調としてある部屋はどう考えても病室だった。
一体どこの病院で、今は一体いつなんだろう。自分は今までどれくらいこうしていたんだろう。
腕には包帯がまかれ頭にも違和感があった。体中痛みはないが自分の身体ではないような違和感はぬぐえない。霊的な風に言えばまるで他人の身体に自分の魂だけが入っているようだ。
それから記憶を整理してミエは自分が事故にあったことを思い出し、それが自分の不注意であるということを思い出し、どうして自分が不注意をしてしまったかまで思い出した。
そしてその時だった。部屋のドアが開く音がした。
「失礼します」
ぼんやりと天井をみていると誰かが入ってきた。首が動かせないので確認ができずその人物が視界に入るまでわからない。
ただ自然とその声を聴いたときに体が硬くなるのが分かった。
ミエの視界にゆっくりとその人物は入ってくる。まるでその時間を味わうかのように。優雅な足取りだということは足音で十分に分かった。
「こんにちは。気分はいかがかしら」
視界に入った人物はカオリだった。斎藤カオリ。いや多分それは偽名だろう。
声を出そうとしたがミエの声はまったく声にならずただ息を吐き続けるものでしかなかった。かすれていてとても自分が出している声とは思えない。
その様子をみてカオリはやさしくうなづきながらとても穏やかな表情で「ええ、言いたいことはわかるわ」と言った。
うなづきながらそう言うさまは優越感に満ちている表情だった。恐ろしいほどの優しい笑顔にミエは動けるものなら早くここから逃げたいとさえ思っていた。
「そうよ。私の本名は三上。本名って言っても結婚してからの本名だからちょっと変ね。斎藤は旧姓なのよ」
「あ」
唯一まともな声がそれだけだった。それ以上の言葉は出ない。
それを聞いてミエは絶望的な気持ちになりつつも自分がどうしてこの人物を怖いと思っていたか納得した。
このカオリという女は。
「あなたが殺した同級生の母親よ。アイのこと覚えているでしょう」
三上アイ。自分がいじめて追い詰めたあの生徒の母親。
アイが自殺して以来心身を病んだと聞いていた。そういえば顔を見たことがなかった。
恐ろしくて見ることなどできずミエもふくめいじめに関わった生徒は誰一人遺族に謝罪もなにもしていなかった。
どんな世間のバッシングよりも恐れていた存在でもある。
娘を殺された悲しみは計り知れない。それにミエたちに向けられている憎悪は恐ろしくて覗くことなどできないだろうと思っていた。何をされても文句は言えない。だからと言って自ら謝りに行くなど足がすくんでできない。それに謝ったところでどうなるだろう。許してくれるはずなどない。殺されてもおかしくないのだから。
ミエは体を震えさせた。口元を緩ませて今にも覆いかぶさってきそうなほど顔を覗き込んでいるカオリが恐ろしくてたまらなかった。
顔は笑っている。でも瞳の奥には冷たい悲しみと熱い憎しみの炎が見えている。
「あなたのことをずっとずっと探していたのよ。大学生までは追っていたんだけど、それ以降ここまでたどり着くのは大変だった。あ、大学生の時のあの張り紙覚えているかしら。素敵だったでしょう。あなたはずいぶん怖がっていたみたいだけどね」
あの時の緊張感がよみがえりミエは眩暈がした。ただでさえ今は正気を保っていることがやっとの状態だというのに、これ以上の刺激には耐えられない。
カオリはベッドわきにあったイスに座り「ふう、今日も忙しかったのよ。あなたが事故にあったから仕事がたくさんでね」と嫌味とも喜びともとれる声で言う。一体自分はどれくらいの間こうしていたのかわからないが、仕事が溜まっていたということは最低でも二、三日はこうしてベッドの上にいるのだろう。
「でも大丈夫よ。あなたはただの不幸でこうなったのだから、責任を感じることはないわ。それにこれからは私がいるから大丈夫よ」
一体何を言っているのかわからなかった。ただカオリは慈愛に満ちた顔でただひたすらに微笑み、ミエを見下ろしている。年相応の乾燥した手をミエの頭にかざすとそっと髪の毛を撫でてきた。その仕草には一片の憎しみも感じられない。優しくただただやわらかいものだった。
ミエは口だけを動かしてどういうことか、と聞いた。するとカオリは「ふふふ」と笑った。
そして「私ね」と一言置いてミエの髪の毛を撫でながら語りだす。
「あなたにアイを殺されてから本当に悲しくて。毎日毎日あなたやあなたの友達をどう殺してやろうかと考えていたの。焼き殺すか、めった刺しにして殺すか、首をしめて殺すか。いろいろ考えたわ。そしてね同時にどうしてアイが殺されなくてはならなかったのか考えたわ。アイはとてもやさしい子だった。幸せになるべき子だったのよ。それなのにどうしてあんな殺され方をしなくてはならなかったのかって。とてもとても考えたわ。でもわからなくて。どんなに考えても考えてもわからなかった。それでね、逆の立場になって考えてみたのよ。わかるかしら?私、あなたたちの立場になって考えてみたのよ。すごいでしょう」
褒めてほしいというあどけなさでカオリはそう言う。ミエはそれを瞬きもせずに見ていた。恐怖で瞼が固まっていた。
「そうしたらわりと簡単に答えがでたのよ。あなたとあなたの友達はただ自分の人生を守りたかっただけなのよね。アイを犠牲にしてでも自分たちの生活を豊かにしたかっただけなんだって、そうなんでしょう?ねぇ?それに気が付くことができたのよ。一人の人間を殺してでも自分の人生を守りたいなんて並大抵の人ができることではないわ。幸せでしょう?今。アイはあなたたちの役に立ったのね」
ミエは違うと言いたかった。だが声がでない。泣きたいほどの恐怖だったがどうしてか涙がでない。それくらい恐怖で支配されているのだろうと少しの冷静さが言った。
「だからね、私もあなたがもっと幸せになるためのお手伝いがしたいなって思ったの。アイの親ですもの。親子であなたの人生に関わらせてちょうだい。他のあなたの友達たちのこともきになるのだけど、あなたが中心でアイを殺したんでしょう。だからあなたのそばにいようと決めたの。ほら、ちょうどあなたのお母さまは病に伏していらっしゃるみたいだし。あなたはこれから一人では生活もできないから私がお世話をしてあげたいのよ」
全体的に何を言っているのかミエには理解でいなかった。狂っているカオリの言葉を一つ一つ理解するのは到底できないと思っていたが、その中で最後の「一人では生活もできない」という言葉が引っかかる。
ミエが困惑していることが伝わったのかカオリは「ああ、そうそう」と口元に手をやって答えた。
カオリから聞かされた内容はミエには到底受け入れがたいものだった。
「あなたね、おそらくこのまま寝たきりの生活になるだろうって言われているの。治る見込みは今のところ難しいそうよ。意識は戻っているけれどねぇ、このままベッドから離れられないの。ほぼ一生。リハビリすればもしかしたら座ることくらいはできるかもしれないんだけど、でも大変みたい。だからね、私が手伝ってあげるわ。あなたが幸せになれるように。私がずっとずっとあなたのお世話をしてあげる。大丈夫よ。あなたのご両親はあなたを見捨ててしまったけれど私はあなたのそばにずっといるわ」
寝たきり。ミエは目が覚めた時から体の感覚があまりないことを知っていたがそれは一時的なものとばかり思っていた。いや願っていた。ただ単に今は事故の衝撃で動けないだけだと。そう願った。懇願した。しかし、その願いは当然のように消え去った。
働くこともできず望んではいなかったが結婚も本当にできなくなってしまった。一般的な人生を歩むことはできないのだ。自分は。
平凡はもうない。一生やってくることはないのだ。
「ああ、あと言葉はリハビリすれば大体のことは話せるようになるみたいよ。よかったわね、たくさん話をしましょう」
ショックのあまりその言葉もミエの前を通り過ぎていく。
何も音が聞こえなくなった。頭の中ではぶら下がっているアイの姿、そして大学時代の張り紙、この間の職場に置いてあった紙。ただその場面がぐるぐると回りミエを取り囲んでいた。
そしてただ一つ聞こえる声があった。
隣にいるカオリの声だ。
「私はあなたの幸せを願っているからね。一生」
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