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「梓、ほら降りるよ」そう声をかけたのは見慣れない青年だった。  今日はサークルの新入生歓迎飲み会で、久しぶりにお酒が入っていい気分になったのち、次第に同じく酔っている同級生も電車から降り、人少ない車内でうつらうつらとしていた。  大学から電車で一本の場所に下宿先を設けた私は、いつもこうしてみんなが人混みの中また新たな電車に重い頭を抱えながら乗り換えていくのを少しばかりの優越感とさみしさを湛えた目で見送っている。一本といっても、この線の端の駅なので同じ大学の生徒は少ない。むしろ、好き好んでそんな場所を選んだ。  ところで、私の下の名前で呼ぶ人は数少ない。両親、高校時代の少ない友達、兄……。大学になると仲が良くてもどこか一歩踏み込まない人間関係ばかりで、苗字である「宝田」が浸透し、実家に帰らなければ自分の名前の呼ばれ方も忘れてしまうほど。  だから何が言いたいかと言うと、私の「名前」を知る人は少なく、それは大半が身内であるために、この見知らぬ青年に手を引かれていくのを躊躇わず、そのまましばらく手を引かれ続けていたということ。  酔っていたこともあって私の意識は宙を漂っていて、彼が「定期出して」とか「水飲める?」と声をかけてくるのに素直に従っていた。  覚えているのは、家に帰るまで添えられていた腰に回る男の腕と、部屋の前でかろうじて顔を出した理性で断った入室、そして彼が嫌な顔をせず、ただ微笑んで「おやすみ」と言ったこと。  私は翌日の朝になって、この一連の光景をカーテンから朧げに差し込む朝日を浴びながら考えている。今日も大学があることを思い出して、着の身着のままもぐりこんだ布団から這い出すと、掛けてある服から適当に見繕いシャワーを浴びる。  ザーッと温水が当たると次第に思考がクリアになってきて、昨日のことをありありと思いだし取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと言う気持ちになってきた。彼を寸でのところで止めた私の底に眠る最後の理性に感謝しつつ、一つ大きな疑問が頭をもたげる。  私の「名前」を知るあの青年が、何も聞かずともこの部屋へ私を送ることができたのはなぜか。
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