第1章

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 顔面蒼白となったノゾムは、試験監督の元へ駆け寄り、状況を説明して試験辞退を申し出た。荷物をまとめ、大学からそのまま地元へ向かう列車に乗った。  ノゾムは混乱していた。  ノゾムにとって、これほど心を乱したのは祖父母が亡くなったとき以来であった。  指定された病院へ到着すると、母親は朦朧としながら白い清潔なベッドで横たわっていた。意識は一度戻ったらしい。担当医から女性の病気を原因とする貧血だと説明を受けた。命に別状はないが手術が必要とのことだった。    ノゾムの未来職人は今置かれた状況に対応できる一寸先の未来しか紡げない忙しさだった。こういうことは未来職人の職務においてそれほどイレギュラーではない。人間、生きていればいろんな事件がある。波乱万丈な人生を送る人間のパートナーであればこのようなギリギリの仕事は日常茶飯事と言っても過言ではない。  ノゾムは聡明で几帳面であったが故にこのような事態に遭遇することが少なかった。少年から青年に移り変わったばかりのノゾムにとって、突然降りかかった衝撃的出来事に追い付くには気苦労が少なくなかった。先述した通り、大人の未来はストックができてしまっているので軌道修正が難しいのである。    母親は手術と一か月の入院を終えると再び仕事に復帰できるまでに快復した。父親はもっと大事を取るように勧めたが、母親は頑として聞かず酒屋の店先に立った。母親の入院中店を手伝っていたノゾムも、二人のやりとりを見て胸をなでおろしたのであった。    しかし、ノゾムにとって不幸だったのは、辞退した試験科目が教員課程の必須科目だったことである。試験辞退をしたことにより、ノゾムは教員資格を取得できない。地元に帰ってからはずっと店を手伝っていたこともあり、ほかの必須科目も落としてしまっていた。ノゾムは大学四年であり、再履修すると後期の講義に出られない。単位は足りているので卒業自体に問題はない。教員資格を取らずに卒業するか、自主留年して再履修するか、どちらかだった。    ノゾム自身はそれほど悲観的ではなかった。いや、そう見せるしかなかったというのが正しいだろう。母親を傷付けると考えたのである。  ノゾムは教師になることを一旦諦めた。他の友人と共に、後期は就職活動を行ない、企業面接を受け始めた。
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