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あなたが出ていった後。
わたし、あなたへ荷物を送り返したわね。歯ブラシとか、パジャマとか。
たけど。
クローゼットの隅にあった香水。
あれだけは、わたし、入れなかったの。
だって、それは最後のひとつ。それも入れてしまったら、わたし達の思い出が小さな箱ひとつで終わりになってしまいそうで。
「あの香水がなかったんだけど」
って電話がくるかな、と期待して。
ケータイからあなたの番号、まだ消してないのよ。
ビンに鼻を寄せると、オレンジの甘い香り。
出会った時からあなた、この香りでさわやかさを振りまいていたわ。サークルの中で、いちばん輝いてたわ。わたし、一目で恋に落ちたの。
ふたを取って、シュッとひと吹き。
あなたに抱きしめられたことを思い出す。
「好きだ……」
わたしも、と言いかけた言葉は、唇でふさがれたわね。そしてこの香りに抱きしめられた。
あなたとのキス。体のすみずみまで。オレンジの香りを二人がまとって、夜をすごした。何度も同じ月を見上げたわね。
オレンジの残り香はすこしほろ苦くて。わたし達の恋に似てる。
「好きな人ができた。ゴメン」
いつものこと、と思っていた。きっとすぐわたしのところに戻ってくる。熱はすぐ冷めるって。
でもあなたは戻ってこなかった。あの人に会ってからは……。
あなたの香水。これをまとっていると、まだあなたがとなりにいるような気がするの。まだ別れていないような気がするの。
「このあいだはゴメン」って、ドアを開けるんでしょう?
待ってるから。この香りをまとって。今夜も。明日も。ずっと。
そしてこの香水がついに空になっても。
あなたがこのドアを開けなかったら。
わたし、あなたを忘れられるかしら。
それはいつ? 半年後? 1年後? わからない。
でも、まだ今日は。
この甘くほろ苦いオレンジの香りに包まれていたいの……
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