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驟雨
世界中の色を拭い去るような雨だ。
どんよりとした雲が垂れこめて、そこから小さな雨粒が、シャワーのように一定の量でずっと降り続いている。黒い傘をさして、男はその下を足元ばかり見ながら歩いていた。
雨は嫌いじゃない。けれど靴が濡れるのはどうにも好きになれなかった。この歳で長靴を履く訳にも行かないし、けれどつま先に着実に忍び寄っている冷たい気配は、どう考えても研究室のロッカーに脱いだ靴下をつるす羽目になりそうだと伝えていた。
ため息を吐きそうになりながら、通いなれた道を歩く。大学の裏手側にあたるこの辺りは、日当たりはあんまり良くないし、コンビニも遠いけれど、その分人気がなくて静かだ。朝の忙しい時間帯にも関わらず、すれ違う人はほとんどいない。
人が住んでいるのかもあやしい、古ぼけた二階建ての木造住宅が密集する路地を、野良猫の気分で通り抜けていたとき、ふと足を止めた。
アジサイが咲いている?
鮮やかに見えた青紫の小花の手毬は、けれど脳が見せた錯覚だった。いくら見回しても、両側はダークグレーの木の壁やら、灰色に汚れた室外機やら、その上に載っている枯れた鉢植えなんかしかない。はて、と首を傾げた時、気づいた。花の匂いがするのだ。それも、香水の原液のような、強烈に甘い匂いが。
腰の裏側の産毛が逆立つような感覚の理由が分からなくて、男は匂いの源を探した。家と家の間、人一人がなんとか滑り込めるか、というほどに細いすき間の奥から、心地よすぎてどこか恐ろしくなるような香りが漂ってくる。
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