驟雨

2/3
前へ
/67ページ
次へ
 捕虫器の青い光に群がるコバエのように、気づけば男は傘をたたんで、薄暗いすき間をふらりふらりと進んでいた。雨粒が頭皮を叩き、靴が水たまりに沈んで、跳ねた水滴がズボンのすそを濡らす。けれどもう、そんなことは気にならない。  家同士のすき間を抜けると、二つの家の裏手はゆるやかな上り斜面になっていた。板チョコレートみたいなコンクリートで補強されたなだらかな斜面のふもとには、半円を描くようにアジサイが咲いている。青紫の群れの中で、正面の一株だけが燃えるように赤かった。その下に、一人の男が倒れている。  その男に気づいた瞬間、体中に鳥肌が立った。まるで全力で走った後のように心臓が恐ろしい速度で脈打ち始め、あまりの血圧でこめかみがツキンツキンと痛む。無意識につばを飲んで、男は一歩後ずさった。  これは、ヒートだ。  あまりに強いフェロモンに中てられて、男はしばらくの間、自我を失った。まるで水の中に落ちたみたいにぼわんとすべてが遠くなって、目の前の男のぬれたシャツの皺だとか、黒い髪の毛が張り付くうなじだとかばかりがズームしたようによく見えた。  倒れている男が呻いたのが先か、ひと際大きな雨粒が立ち尽くす男の鼻の頭に落ちたのが先か、ともかくその刺激で男は我に返ることに成功した。一瞬、呑まれていたことにうろたえながらも、一気に流れ込んできた雨音に無理やり意識を集中しつつ、あわてて自分のカバンを開ける。  確か持っていたはずだ。  ややあって、探り当てた銀色のシートを掴むと、男は地面に伏す青年に駆け寄った。まだ二十歳そこらだろう。幼さを残した顔に、苦悶の表情が浮かんでいる。  男は震える手でシートから薬を押し出すと、青年に差し出した。 「抑制剤だ。飲んで」  口元に押し付けても、呼吸をするだけで精いっぱいという様子の青年は、小さな丸薬ひとつ飲み込むことさえ難しそうだった。その様子に焦れて、男は指で無理やり真っ赤な口内に白い丸薬をねじ込む。しどけなく口を開けて呼吸していた青年は、突然入ってきた異物に驚き、むせ込んでしまった。性急すぎたことを口先で謝りながら、男は焦った。早く、なんとかしなければ、青年も自分も大変なことになる。
/67ページ

最初のコメントを投稿しよう!

91人が本棚に入れています
本棚に追加