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せめて飲み物さえ持っていれば。あるいは注射タイプの抑制剤があれば。雨に打たれた丸薬が、ぬれたラムネのようにほろほろと崩れていく。即効性の口腔内崩壊錠だって、口に入れてられなきゃ意味がない。いっそ雨を集めて溶かして飲ませるか? どろどろに溶けた薬液を男の胸元にぶちまける未来しか見えない。この状況で、確実に患者に投薬できる方法を、男は一つしか思いつけなかった。分かっている、今の自分は、冷静ではない。
男は意を決した。新しい丸薬を口に含むとかみ砕く。伏せていた青年を乱暴に仰向けにすると、男はそのまま青年に覆いかぶさって、荒い息を繰り返す真っ赤な口をふさいだ。
くぐもった呻きを無視して、男は必死に薬を自分の唾液に混ぜて溶かすと、母鳥が雛にエサを与えるように、すこしずつ眼下の青年に含ませる。
行為の意味はそれに似ていても、実際の感覚は慈愛とは程遠い。やわらかなくちびるに触れた瞬間、猛烈な欲が腹の底から脳を揺らした。抗いがたいその衝動に、けれど男はこぶしを握って耐えた。爪がてのひらに食い込んで、皮が爪の間に挟まる感触がした。拷問のような時間は、単位にすればほんの数分だっただろう。すべての薬液を流し切って、なお舌に絡みついてくる熱を振り払うように顔をあげる。細い両肩を掴んで体を引き離すと、勢い余ってしりもちをついてなお後ずさった。口を手の甲で拭い、ひどく早い脈動を落ちつけようと、意識して深呼吸を繰り返す。
男の心臓がようやく落ち着いてくるころ、目の前の青年もまた、薬が効き始めたようだった。甘ったるい香りは雨に打たれて消えていき、その雨も次第に小降りになって、あたりがすこしずつ白っぽく、明るくなっていく。青年を彩るように囲むアジサイが、光をまぶしたように輝き出す。
青年も、自分もちゃんと服を着ている。誰かがやってくる気配もない。
間に合った。
男はようやく、安堵のため息をついた。いつの間にか空から光が差していて、今は穏やかに眠る青年の頬を白く縁取っていた。
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