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「結花が協力したって、どういうことなんです」
朝早い廊下は、ペン一本落ちただけで皆が起きてしまいそうなほどの静寂が満ちている。雨洞はなるべく小声で、それでもにじみ出る感情の高ぶりを抑えきれずに、養父に詰め寄った。
「あまり大きな声では言えないんだけどね」養父はすばやく周囲に視線を巡らせる。養母は何も聞こえていないように、そっぽを向いたまま動かない。「彼女はとある研究所のデータを我々にくれたんだよ」
「なんだって?」雨洞は目を剥いた。「そんなの、どうやって」
「それは僕も知らない。まあ、あまりよろしくないことなんだろうとは思う。けれどそのデータがあったからこそ、あの薬はこれだけの短期間で完成したんだ」
米国の製薬会社で研究員をしている養父は、まったく新しいヒート抑制薬を開発していた。バースのスイッチをフラットな状態――ようは未分化な状態まで戻すという抑制薬は、雨洞の研究をベースに作られたものだ。昨日から、ヒートが治まらなくなった兄への治療薬として試験投与が始まった。いつか木陰に話した臨床試験が、ようやく認められたのだ。その開発に、結花が手を貸した?
「彼女は……何者なんです?」
「……はじめは、グローザ製薬の研究員だと言っていたんだよ」
養父が破れやすい包みをほどくようにそっと告げる。雨洞は息を飲んだ。
「ある日、突然僕宛にメールが来てね、『グローザ製薬の非人道的な研究についていけなくなった。監視がきつく、自身の生活もあって内部告発できない。データを託すから、せめて良い方向に使ってくれ』と。そりゃあ怪しんだよ。でも、データ自体は不審な点はなかったし、保留にしてたんだ」
送られてきた研究内容は、知見としては素晴らしく画期的なものだった。しかし、その実験方法は、倫理的にとても承認の降りるものではなかった。いたずらか、いやがらせか。そう判断して放置していたデータが、新薬に応用できそうだと気づいたのは、受け取ってから数年以上経ったころの話だ。もちろんデータはそのまま使わず、自社で再度、検討と実験は行ったけれど、最初に創薬の方向性が決まってしまえば、あとはレシピ通りに料理をするのと同じだ。
「送り主が結花ちゃんだと知ったのは、つい最近だよ。同じアドレスからメールが来て、本人が名乗った。彼女が何者なのかは、自分で聞きなさい」
養父はそう言って、継代に失敗した培養細胞を見るような顔をした。
そっと扉を開けて中に戻る。洸陽の枕元に座って兄の横顔を眺めていた結花は、ゆっくりと振り返った。
「突然お邪魔しちゃって、すみません」
「邪魔だなんて。むしろ、来てくれてありがとう」
養母は顔をほころばせる。「洸陽もよろこぶよ」
「結花、きみは……」雨洞は彼女の椅子のとなりにゆっくりと歩いていき、まるいつむじを見下ろした。「父の研究を助けてくれたと聞いた。そのおかげで、今、この薬ができたって。ありがとう。……でも、その」
歯切れ悪く話す雨洞を、結花はにっこりと見上げて、そして立ち上がった。
「メール、ちゃんと読んでくれてありがとね、洸紫」
はじめ、なにを言われたのか分からなかった。結花からのメールなど、受け取っていない。受信フォルダは大学の学生と、風間からのメールばかりだ。
本当に?
差出人不明のメール。出所不明の、幼い木陰の写真。
「……え?」
「私が何者なのかは、教えられないんだ」
結花は視線を兄に戻して、静かに言った。「私ができるのは、探ることだけ。そしてそれを必要な人に渡すことだけ。この薬のことだって、根っこは洸紫の研究だって聞いたよ」
「ほんの一部だよ」雨洞はあわてて否定する。「父さんや、結花のデータがなければ、こんなに早く臨床試験までたどり着かなかった」
「花は、種がなければ咲かないよ」結花は姉のように笑う。「洸陽が起きたら、ばしっと言ってやって。独りよがりはもうやめろって。……木陰くんに言ったみたいにさ」
「は?」
「スマホ、鳴ってるよ」
結花は細い指で雨洞の胸ポケットを指さした。あわてて確認する。青い光が点滅していた。メッセージが一件、送り主は。
画面をなぞっていた指が止まる。その向こうで、白いシーツの上に投げ出されていた同じ形の指先が、ちいさく動いた。
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