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朝の光で満ちた世界を走る。走る。噴き出した汗がこめかみを伝って、一歩踏み出すたびに風で冷えてはまた熱が生まれる。ここ数週間、大学に泊まり込んでいたせいで、こんなにも夏が来ていたことに気づかなかった。ハッとするほど色鮮やかな緑の植木や、名も知らない黄色い花、よく日に焼けた古木の壁や黒い石畳、そんな景色が目の前に現れては勢いよく過ぎ去っていく。
古ぼけた木造建築の並ぶ路地に入ったところで、脇腹に引き絞られるような痛みを感じて、雨洞はようやく足を止めた。よろよろと歩いて、それでも顔を上げる。まだ人が動き出す前の、ほこりの少ない空気の向こうに、蜃気楼のような黒い影が見えた。
荒い息で近づく雨洞に、影はぱっと顔を上げた。意志の強そうな大きな瞳が一瞬、まぶしいものを見るように細められ、次に笑みの形に変わる。つられて雨洞も笑って、乱れた呼吸がまた脇腹に突き刺さって呻いた。クックと鳴る抑えた笑い声に混じって、わずかに甘い花の香りが漂ってくる。蜜に誘われる虫のように、雨洞はゆっくりとその源へ向かっていく。
まるで、世界中が一斉に色づいたかのようだ。
「先生」
なによりも目を奪って止まない青年が、濃い疲れを残してなお澄んだ空のような瞳で雨洞だけを見つめている。その手を引いた。
やわらかな風が吹いて、雨洞の頬を木陰の髪がゆっくりと撫でる。一面に咲いた白いアジサイが、祝福するように小さくゆれていた。
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