256人が本棚に入れています
本棚に追加
/204ページ
「あれ、浜園さんじゃないですか!! おはようございます!!」
耳をつんざく爽やかなその声に、私はピタリと止まり背筋が凍りつく。タッタッとリズミカルな足音が背後から近づいてくるのが聞こえる。ゆっくり振り返ると、スポーティーな格好をして汗を垂れ流している先生がはぁはぁと息を切らしながら、足を忙しなく交互に挙げている。
いかにもジョギングしていましたみたいに振る舞っているが、偶然にしては出来すぎている。あんなに確認したのに、一体どこに隠れていたというのか。
「偶然ですね。どちらに行かれるのですか?」
「ちょ、ちょっと…散歩、に…」
「そうですか。いいですね、散歩。体を動かすことは大事ですよ。」
やってしまった。散歩なのに走っているなんて不自然だ…いや、そもそも外に出ている時点で…
目の前に街へと続く道が広がっている時点で、どう言い訳しようと無駄だろう。
逃げようとした私を一体どうするつもりなのだろう。しばしの静寂が流れる中、私は先生の顔を見ることができず、呪いをかけられた様に微動だに出来ない。
「それなら、少し遠いですがあの見えている街まで行ってみたらどうですか? ここから片道30分程なんで、コースとしてはピッタリですよ。」
予想していなかった返事に私は思わずえっ!!と声を漏らしてしまう。何を言っているのか分かっているの、この人…逃げようとしているのに、それを止めるどころか勧めてくるなんて、頭が狂っているとしか考えられない。
「…行っても、いいん、ですか…街へ…」
「うん? あ、いや。少し遠いですし、嫌なら別にいいんですが…」
私は今きっと凄い顔をしているのだろう。先生はどこか申し訳なさそうな顔をして、目を反らしている。
…そう。分かった。何を考えているつもりなのか知らないけど、あなたのアドバイス通りにしてあげる。その方がこっちも都合がいい。
「…いい案ですね、それ。先生の言う通りにさせて頂きます。」
「えぇ。浜園さん、この辺のことはよく知らないでしょうし、折角の休みですから家の中にいないで外に出た方がいいですよ。」
そう言い終わると先生はそうだ、と突然ポケットの中を漁り始める。少しシワになっている茶封筒を出して、これどうぞ、と私に差し出す。中には一万円札が、しかも二枚入っていた。
「昨日働いた分のお給料です。初めてなのにいい働きぶりでしたので、少しおまけしておきました。丁度浜園さんのアパートがコース途中なので渡そうと思っていたんですが、出かける前に渡せてよかったです。見た目と違ってさびれた街ですが、それで美味しい物でも食べてきて下さい。」
「あ、ありがとうございます…」
外出も許可してくれて、お金も渡してくれる拉致監禁者がこの人以外この世にいるだろうか。これではまるで逃げてくださいと言わんばかりだ…それとも、ここまでしても大丈夫という絶対的な自信があるのだろうか?
「さて、と。私はランニングの途中なので、これで失礼します。また明日、いつもの時間に迎えにきますので、それまでには準備を済ませておいて下さい。」
それじゃ、と言うと先生は私とは反対方向…アパートの方へと走り去っていく。どこかに身を隠して監視するのではと思い、その後ろ姿を見つめ続けるが、徐々にその背中は小さくなり、陽炎の中に消えていった。それを見届けた後、私は街の方へ向き直り、歩き出す。
そうだ。何も心配することなんて…ない。
先生がどういう策略を張り巡らせていようと、私がやることは変わらない。
警察に行って。今までされてきたこと、全てを打ち明けて。先生は逮捕されて。そして私は…
私は…どこか行く宛があるだろうか…
最初のコメントを投稿しよう!