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ー1ー
白いシーツの中で、目覚める。生温い2人分の体温が冷めかけて、気だるい身体にまとわりついている。
静かな朝――。
ビジネスホテルのセミダブルのベッドに独り。閉じたカーテンの向こうは、きっと快晴。いつも、そう。
けれども、私の気分は憂鬱だ。オフホワイトが薄く翳る天井をぼんやりと眺めながら、昨夜の情事を反芻する。煙草の味が残る彼の舌、何度も重ねた熱っぽい唇、骨ばった大きな掌、筋肉質の腕、年齢の割りに引き締まった胸や腹回り。彼の指先の感触を、求められて溶かされた行為の記憶をなぞる――次回まで忘れないように。
――ピピッ……ピピッ
ベッドサイドのアラームが、現実に引き戻す。
起きなくちゃ。チェックアウトの2時間前にセットしたから、もう9時か。
満たされて浮かされる快感が消えた後は、どうしてこんなにも重だるいのだろう。身体中に泥を詰められたみたいだ。
髪を掻き上げて、裸のままバスルームに入る。彼が使った後の濡れたシャワーカーテンをバスタブから出して、熱い湯を張る。
溜まるまでの間、歯を磨く。湯気で曇った鏡を手で拭く。化粧っけのない肌は、色白ではなく血色がない。30歳までには間があるが、放っておいても保てた張りや瑞々しさも、ケアが必要になってきた。
やだ。目立つのに。
鏡に写る私の左耳の下に、赤いアザがある――キスマークだ。
所有する気もないくせに、独占欲だけは強い男。
口を濯いで、バスタブを覗く。半分を越えていたので、湯を止めた。蒸気で湿った髪をゴムで纏めると、膝を抱えた姿勢で、胸まで浸かる。毛穴から吹き出す汗と一緒に、彼に注がれた愛も流れていくようだ。
目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
ー*ー*ー*ー
『関西支社から赴任した山部です』
健康的に日焼けした彼が、新しい課長として就任したのは、3年前の春だ。
入社して4年。もう新人ではない私は、何故か彼に抜擢されて、日常的に雑務の補助を任された。取引先の会社への挨拶回りにも、当然のように毎日連れ出された。
『山部課長、大阪にいらしたのに、標準語がお綺麗ですね』
午後から、アポを取り付けてあった取引先を4社回り、最後の1社に向かう車中。この後会う、先方担当者の情報を纏めた手元の資料を伝えた後、沈黙を避けるために話を振った。
『関西から来たからって、みんな関西弁じゃないよ。それに僕は、元々関東こっちの出身だからね』
見惚れるように爽やかな横顔が、快活に笑う。車内で、私が読み上げる情報をインプットする真剣な眼差しも、取引先で見せる卒のない振る舞いも――単なる上司という関係性を軽く越えて、私の心を惹き付けていた。
『そうなんですか? K大のご出身と伺ったので、てっきり地元で進学されたのかと思っていました』
『よく僕の出身校を知ってるね』
『それは……課長のことは、女子の間で噂ですから』
左手の薬指に光るものさえなければ――部署内外の女性陣は、一瞬ときめいたものの、即座に落胆した。
『はは……そうか、恐いな』
『恐いのは、私の方です。もっとベテランの先輩もいるのに、どうして私なんかを選ばれたんですか?』
男性社員の耳に届かないところで、聞こえよがしのやっかみがあることは事実だ。
『若い子っていうだけで、お得よねぇ』『連れていると見映えがいいんじゃない?』『ああ、引き立て役には適任よね』――30代の先輩女性達が、ロッカールームでゲラゲラ笑いあっていた。もちろん、私がやって来るであろう退勤時間を狙って、話しているのだ。
『君が晴れ女だって聞いたからさ』
『……はっ?』
確かに、私は俗にいう「晴れ女」だ。自分で言うのも何だけど、かなり強力だ。中学時代のあだ名は「歩く、てるてる坊主」だった。
『噂通り、君と出る日は雨に当たらないよね。すごい効き目だ』
『……』
けれども、私が少なからず苛まれている悪言の根源が、そんな下らない理由だとしたら。仕事中で、相手は上司だけど、思いっ切り不機嫌を表情に乗せた。
『やだな、冗談に決まってるだろ。君のサポートが、細やかで的確だからだよ』
マリッジリングを嵌めた左手が、私の肩をポンポンと叩いた。
突然のスキンシップに、緊張して固まったが、胸の鼓動のスイッチが入っただけで不快には思わなかった。油ギッシュな中年の係長に同じことをやられたら、社内のセクハラ対策委員会に即座に訴え出るのに。
『一緒にいて気持ちいいんだ。仕事が効率良く片付くのも、君のお陰だよ』
『……それは、課長の能力です』
『パートナーの力を引き出すっていうのも、能力だと思うよ?』
『……』
「パートナー」――さらりと紡がれた甘い響きに、ときめく気持ちが抑えられない。ダメだ。本当のパートナーがの居る男性ひとなのに。
『今夜は直帰するから、食事に付き合ってくれないか。君と一緒に行きたいと思っていた店があるんだ』
魅力的な笑顔は、自分に自信があるからだろう。
彼の言葉にも、自分の心にも、抗えなかった。
大学時代に付き合っていた彼氏と別れて2年――当時、シングルだった私が、危険な恋に落ちるのは、あっという間のことだった。
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