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「課長、土曜日の夜、会えますか?」 メールしようと思っていた月曜日、偶然エレベーターに2人切りで乗り合わせた。挨拶でもするような、平静な態度で問いかけてみる。 「君から誘ってくるとは珍しいね」 「……素敵なお店を見つけたんです。ドイツワインが豊富らしくて」 彼はワイン好きだ。特に、モーゼル地方のリースリング種が好物なのだ。 「へぇ……いいね。後で地図送ってくれよ」 予想通り、食い付いた。チラと見上げると、微かに口角を上げる。上機嫌の証だ。 「はい。人気店なので、予約入れていいですか?」 「うん。20時で頼む」 「はい、楽しみにしてます」 金曜日の午後から関西に出張予定の彼は、私から声をかけなければ、週末を奥さんと過ごした筈だ。 ――分かっている。 奥さんより私を選んだ訳じゃない。関西(あちら)に越していくまでのあと僅かの間、存分に楽しんでいこうという打算に違いない。何故なら、彼はまだ転勤を公表していないばかりか、私にも打ち明けてくれていないからだ。 その夜、私はレストランに、テーブル席を2席予約した。 それから、面接の採用者の方々にメールした。 ー*ー*ー*ー 週末は降水確率0%、桜の満開予想が出ていた。 科学的予測を非科学的能力が撃破して、理想的な失恋日和になった。滝のような雨が、容赦なく降りてくる。 桜の大木の下で立ち止まり、赤い長傘を閉じる。ビルに囲まれた、都会の小さな公園だが、堂々と咲き誇っている。街灯に照らされた薄桃色の雲を見上げると、満開になったばかりの花たちが、恨めしげに俯いていた。 「ごめんね。でも、今夜だけは……一緒に泣かせて」 自分で引いた幕だけど、やっぱり辛い。身も心も燃やした恋だった。このままズルズルと過ごすうちに、いつか奥さんへの気持ちが薄れて、私のものになるんじゃないか――そんな甘い夢を抱いていた。 桜の梢を抜けた雨は、髪や肌や服の上を筋をなして流れていく。涙と渾然一体になって、私をずぶ濡れにすればいい。未練がましく胸の奥で燻る火種を消して、瞼の裏に焼き付いた幻影を洗い流して欲しい――。 ー*ー*ー*ー 予約したお店の前に、課長との待ち合わせより30分早く着いた。 既に、天気予報を裏切る雨が降っている。 「こんばんは。今夜は、よろしくお願いします」 「いえ、こんな素敵なお店でご馳走していただくなんて、反ってすみません」 お店の前で私を待っていたのは、「ぴちょん」さんというHNの40代の女性だ。 先日の面接で7番目にお会いした方で、しとしと降り続く雨をもたらした方だった。今夜、確実に降雨を呼ぶ為に「蝙蝠傘」さんと2人、採用させていただいたのだ。 「いいえ。せっかくの週末なのに、すみません。もうお一方は、あと15分程でいらっしゃると連絡がありましたので、一緒に予約席でお食事してください。謝礼は、帰りにお渡しします」 ぴちょんさんは、「すみませんねぇ」と眼鏡の奥の瞳を細めた。 そして――蝙蝠傘さんは、期待を遥かに上回る嵐を連れて、やって来た。 ー*ー*ー*ー 20時を回っても、課長は現れない。先に予約席に着き、スマホを見ながら待っていた。『何かあったの』――不安になって何度もメールするも、返信はない。 奥の席では、ぴちょんさんと蝙蝠傘さんが、予定通り食事を始めている。 ――ブブブ 突然、スマホが震えた。彼だ。急いでタップしたメールを見て、愕然とした。 『大雨で、新幹線が止まってるんだ。悪いが、今夜は戻れない』 手早く雨雲レーダーを開くと、真っ青に染まっている。広範囲に、異例の大雨がもたらされ、豪雨を示す黄色や赤のブロックすら点在している。 私は席を立ち、女子トイレに入ると、電話をかけた。直ぐに繋がった。 「芙美香、ごめん――」 開口一番に謝る彼の周囲は、静かだ。新幹線の中なら、もう少しざわめきを拾う筈。だから、駅でもないだろう。 彼の居場所が気になった。でも、今更だ。知ったところで結論が変わる訳じゃない。 洗面台の鏡に、表情を強張らせた自分が写る。キツイ眼差しの私が、心折れないよう見詰め返している。一度、引き締めてから、唇を開いた。 「課長。もういいんです」 「えっ?」 「今夜、お別れするつもりでした」 「芙美香?」 「関西支社に戻られるそうですね。奥様のところに、お帰りになるんでしょう?」 「――その話、どこから」 否定しない。それが、答えだ。 「今まで、お世話になりました。私達のことは、誰にも言いませんから」 彼は引き止めなかった。あぁ、やっぱり私はその程度の女だったんだ。心が掻き乱される。 「さようなら」 彼の顔を見て告げる予定だった言葉を、トイレの鏡に滲む自分の顔を眺めながら、吐き出した。 通話を終えたスマホの画面は、涙色に染まっていた。 ー*ー*ー*ー いつしか雨は霧状になり、夜気に煙る中――パシャパシャと水の跳ねる音が近付いてきた。 「『サニー』さん!」 驚いた拍子に、傘が手から離れ、足元で水しぶきが上がった。 「……近くにいて、良かった」 黒い傘を小脇に抱え、緑のボディバッグから取り出した分厚いタオルで、私の髪を優しく拭いた。 「どうして」 蝙蝠傘さんは、タオルを押し付けると、足元の傘を拾い上げる。 「雨が必要な理由なんて、分かりますよ。だから、放って置けなかったんだ」 いきなり腕の中に閉じ込められた。身を竦めたのも束の間、彼の体温が伝わるにつれ、感情がほどけていく。受けた雨が全て涙腺に流れ込んだように、止めどなく滴が溢れた。 「また、会ってくれませんか。雨のち晴れなら、きっと虹が架けられる。あなたと一緒に見てみたいんです」 それは、なんて素敵な提案だろう。私は素直に頷いた。 【了】
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