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ホテルの部屋をチェックアウトした足で、ビジネス街の外れに向かう。肌を撫でる風はまだ少し冷たく、こんな時、愛しい人が隣にいてくれれば……と悲しくなる。最初から分かっていたことだけど、明るい太陽の下、堂々と彼とデートなんかできない。雨でも降れば、傘に顔を隠して寄り添うこともできるだろうが、私は晴れ女――叶わぬ夢だ。 公園が見える、ちょっとお洒落なカフェに入る。休日のお昼前。まだ混み合う前だから、待たされることもなく、店内奥のテーブル席に案内された。 程なく、ランチプレートが運ばれてきた。メインは、ベーコンとホウレン草のキッシュ。付け合わせには、ペンネのアラビアータと、オレンジ色のドレッシングが絡んだサラダ。これらがワンプレートに乗っている。 サラダをつつきかけて、フォークが止まった。バッグの中からスマホが呼んでいる。同期入社で経理課の陽菜(はるな)からのLINEだ。明日、顔を合わすのに、何だろう? 『起きてた? 山部課長、今月いっぱいで移動になるんだって?』 ――え? スッと指先が冷たくなる。あと半月程で移動? そんなこと、彼から一言も聞いてない。 『どういうこと?』 震える指で、やっとそれだけ返す。 『やっぱ、まだ聞いてないっか。昨日、うちの部長と人事部長が話してたのを聞いちゃったんだよね。元々、こっちでの勤務は3年って約束で、戻って部長に昇進するんだって』 ……なに、それ。 最初から3年で、奥さんの元に帰るつもりなら、どうして私を本気にさせたのだろう。それに、そんな約束があったのなら、もっと早く彼の口から聞きたかった。今までいくらでも打ち明ける機会はあったのに。もちろん、昨夜だって。 ドロリとした澱が、掻き乱された胸の中を濁らせ――喉の奥が詰まっていく。 『芙美香(ふみか)、大丈夫?』 私と彼が不倫関係にあることは、親友の陽菜にさえ伏せている。私は、ちょっと上司に目をかけられているだけの部下。それ以上、特別な間柄ではない。この3年、細心の注意を払って、秘密の関係を続けてきたのだ。 『大丈夫。課長には、よく面倒を見て貰っているから、驚いただけ。教えてくれてありがとね、陽菜』 『うん。また明日ね』 対面でなくて、良かった。勘のいい彼女には、全く大丈夫ではない私を誤魔化すことなどできなかった。 ランチプレートのサラダを口に運ぶ。ドレッシングの酸味が、鼻の奥をツン……と刺激する。 遠からず確実に訪れる筈の別離(わかれ)より、彼が積み重ねてきた不誠実な態度が悔しい。 奥さんと離れている間、手近で都合よく遊べる相手が欲しかっただけなのだ。 あの人は、手に入らない。私を抱くときにだけ外すリングを、私のために永遠に外すつもりは無い人だ。 ――狡い(ひと)。 分かっていたけれど、彼に愛される濃厚な時間を失うのが恐くて……約束を求める勇気もないまま、曖昧な夢に溺れながら、刹那な快楽に甘んじてきた。 蜜の味に酔っていた、愚かな共犯者でも、プライドはある。 デザートのパンナコッタを平らげる頃には、私の気持ちは固まっていた。 とある掲示板にちょっと変わった「求人」の書き込みをして、ミルクティーを飲み干した。 ー*ー*ー*ー 3日間の募集期間中に、男女合わせて10人近い応募が寄せられた。 最終的に8人にメールして、面接の場所と日時を指定した。 ー*ー*ー*ー 降水確率10%、薄い雲が空一面にかかった花曇りの午後。 滅多に持たない花柄の折り畳み傘をバッグの中に忍ばせて、面接に向かった。 1人目の応募者の方との待ち合わせのカフェで、レモンティーを頼んだ。大きく開放的な窓の側のテーブル席。空は、春先特有のぼんやりと白いままだ。 テーブルに置いたスマホを覗く――雨雲の動きがリアルタイムで表示される気象予報サイトを開く。雨を示す水色のブロックは、まだない。 「――あの、『サニー』さんですか?」 市内の某進学校のエンブレムが胸に付いた、紺色のブレザーの女性が、ちょっと迷いながら、私の掲示板でのHN(ハンドルネーム)を口にした。 「はい。『雨猫』さんですね? どうぞ、お掛けください」 彼女がココアを注文するのを待つ間、スマホを覗き込む。私達のいる地域の表示は、「曇り」から変わらない。 「早速ですけど、『雨降らしエピソード』を教えていただけますか?」 彼女は頷くと、物心ついた時から家族旅行はいつも雨だったこと、中学生の頃から「雨女」パワーがエスカレートし、大切な行事は毎回大雨になったことを語った。 「中学の時は、遠足が1回しか出来なくて。修学旅行は、台風で中止になりました」 「そうでしたか……」 なかなか強烈なエピソードだ。しかし、雨雲レーダーには全く変化がない。 結局、彼女がココアを空にするまで15分ほど待ってみたが、雨は降らなかった。 「本日は、ありがとうございました。採用の可否は、今夜中にメールします」 「はい。雨、降らなかったですね。サニーさんのパワーに負けちゃったのかも」 雨猫ちゃんは、悪びれずに苦笑いした。素直で好感は持てるが、残念ながら私の「晴れ女」パワーを破ってくれなくちゃ、採用はできない。 彼女の分も一緒に会計して、カフェを出た。さて、次の面接に行かなければ。 ー*ー*ー*ー 約束の10分前から、雲行きがおかしくなってきた。 4人目、「蝙蝠傘」というHNの男性を待って、ヌワラエリアを飲む。駅から5分もかからない、紅茶専門店。公園に面していて、窓が広い。 公園の木々がざわざわと揺れている。私の胸も、ときめきに似た期待でざわつき始める。 ――ポタン…… 目の前のガラス窓に、大きめの水滴が飛んで来て弾けた。一滴やって来ると、あとは――みるみる大群が押し寄せ、視界を滲ませてゆく。 スマホの雨雲レーダーは、俄に寒色に染まる。白から水色、少し濃い青も混じってきた。予報に無かった局地的(ゲリラ)豪雨。 これは、本物だ――。 激しい雨を眺めながら、胸の鼓動の高まりを抑えられず――温い紅茶を口に含んだ。 ――カラララン 店内のBGMを乱して、ドアが開いた。ずぶ濡れになった男性が、黒い長傘を傘立てに差している。多分、彼だ――。 「あの、ここです……!」 気がついたら、片手と声を上げ、その場に立っていた。 「あ、遅れてすみません。初めまして、『こう……』」 「『蝙蝠傘』さんですね? 初めまして、『サニー』です。今日は、ありがとうございます」 皆まで言わせず、私から挨拶していた。 彼は撥水の良い黒い外套を脱ぐと、正面に座る。差し出したハンカチを断ると、緑のボディバッグの中から厚手で大判のフェイスタオルを取り出した。見るからに吸水性に優れているようだ。 「外出する時の必需品なんですよ」 短く刈り揃えた髪を拭きながら苦笑いする顔は、意外に若く見えた。最初20代後半かと思ったが、もしかすると大学生くらいなのかもしれない。 「いつも、こんな感じなんですか?」 滲む窓外を視線で示す。彼も一瞥し、小さく頷く。 「ええ……大体は。でも今日は、ちょっと激しいかな」 凄い。私のパワーを完全に凌駕している。この人なら、私の願いを叶えてくれる――きっと。 「雨を降らさないでっていう願いは、よく聞きますけど、降らしてというのは、珍しい依頼ですね」 彼が注文したアールグレイを飲む間も、雨は止まなかった。雨雲レーダーは、この駅の周辺だけ水色に包んでいる。 「雨が……必要なこともあるんです」 重い理由を誤魔化すために微笑もうとするも、上手く頬が動かない。中途半端な表情のまま、沈黙した。 彼は、チラリと腕時計に視線を走らせて、真っ直ぐに私を見た。 「結果は、いつご連絡いただけますか?」 理由を深く追及されなかったことに、少しホッとする。冷めたヌワラエリアで喉を湿らす。緊張していることに、今更気付いた。 「今夜メールを差し上げる予定でしたが、『蝙蝠傘』さんは採用です。よろしくお願いします」 「良かった。ありがとうございます。それで……出動の詳細は」 「はい、詳しい場所と時間は、数日中にご連絡します」 「分かりました。それじゃ、よろしくお願いします」 一礼すると、彼はボディバッグを身に付けて、撥水の良い外套を手に立ち上がる。領収書を掴んだので、慌てて制した。 「あ、会計は私が」 「いや、自分の分くらい払いますよ。じゃ、失礼します」 もう一度軽く会釈して、蝙蝠傘さんは会計を済まし、出て行った。 店外のポーチで外套を羽織り、長い傘をさした黒い人影が、駅とは逆の方向に消えた。 それから更に5分程、店内で、雨雲レーダーと空模様を見比べた。 雨は徐々に小降りになって、画面上のブロックも水色から白に戻りつつある。彼が消えた方向を含め、雨雲の気配は消えている。雨男だからといって、常に雨が付随する訳ではないらしい。 やがてレーダー上から水色が消え、窓の向こうが明るくなってきた。私も席を立ち、店を出た。雲間から弱い日差しが覗いている。軽く溜め息を吐いて、折り畳み傘をバッグに戻した。
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