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新たなバージョン
季節は春を迎え、木々も新芽が街に彩りを添えていた。ようやく暖かな風が吹くようになったが朝晩の冷え込みはまだ強く、服装選びが難しいこの頃だった。
さとしはこの春からバイトリーダーとなり、店のアレコレを任されるようになった。責任という重いその役割はある意味やりがいにも繋がり仕事への意識も変わっていった。
バイトが終わり家に着くと徳三郎が階段の上から小さな声で手招きをする。
「ちょっと来い、ちょっと来い」
「どーしたの?」
と徳三郎の小さな声に同調するようにさとしも足音をさせないようそっと2階へ上がる。自分の部屋へ向かうと徳三郎が突然大きな声を発した。
「ジャジャーン!〝オフィスみっちゃん〟貴方のお悩み解決します! どうだ、いいだろ」
部屋に入ると、6畳の部屋を2分割してあった徳三郎側には壁に自らの写真を飾り、模造紙には口コミを書いて、さも相談者からのコメントのように「いいね」までつけて派手に飾られていた。
「今度は何だよ…」
「お前の相談は無料でいいぞ」
「何、お金取ってんの?」
「金なんか取らないよ。まぁ強いて言うならカフェでお茶をご馳走になったりとかな」
「そろそろおばあちゃんとこに戻ったらどうよ? 何だかんだ言って待ってると思うよ」
そういうと徳三郎はさとしの顔を覗いた。
「仕方ない。お前にだけは本当の事を話してやる。部屋を借りてる身だしな」
と、いつになく真剣な顔つきで語り始めた。
「俺はな、ばあさんがイヤで家を出たわけじゃないんだよ。ばあさんがよ、俺のために食事つくったり洗濯したり買い物に出掛けたりってな、毎日毎日頑張ってんのが可哀想でな…」
流れが〝オフィスさっちゃん〟になってきた。
「だから1週間くらい旅行でも行って楽をさせてやろうと計画立ててたんだ。だけどそこに思わぬ事態が起こってな…」
徳三郎のそんな優しさを垣間見たさとしは、歳を重ねても大事にする姿に少しだけ感動を覚えた。
「俺が散歩の帰りに寄るいつものカフェがあってな、同じ時間に来てる客と顔なじみになって仲良くなったんだ。その人が昔、旅行代理店で働いてたっていうんだよ」
「へぇー、じゃあ…」
「そうなんだ。それでばあさんとの旅行先を一緒に考えてもらってた」
「え、いいじゃん、いいじゃん!」
さとしはその話に乗っかった。
「おぅ。だけどな、その人と何回か会って綿密な計画を立ててるところを運悪くばあさんに見つかってしまったんだ」
「正直に言えば良かったのに」
「だけど〝百日の説法屁一つ〟って言うだろ。お前はこの諺知ってるか?」
さとしは首を横に振った。
「率直にいうとだな、長い間の苦労がわずかな失敗のために無駄になってしまうこと。そう言う意味だ」
さとしは黙ってウンウンと頷く。
「由来はな、百日も続いた説法がようやく終わろうとした時、坊さんが不用意にもおならをし、折角の有難みも消し飛んでしまったっていうところから来てる」
「ふぅん」
そういうと徳三郎はしばらく黙り込み、腕を組んで首を傾げて考え込んでいた。
「俺は今まで女の陰もなく…ばあさん一筋だったからな。偶然カフェで見た様をばあさんは勘違いしてひどく怒ってな。たった1回見られただけで理由も聞かずにアウトだよ」
「それは厳しいね〜」
さとしは徳三郎に同情した。
「更にそのあとその女性からメールが来たんだが、それも見られてしまってな。ハートマークが付いてたんだ…ハハ」
どうやら2人には時間が必要のようだね、と相談会〝オフィスさっちゃん〟を無事終えた。
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