尾上章子という女

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 彼女を見送った後の教室で、しばらくの間ボーっとして幸せなひと時の余韻を楽しんだ後ようやく事務処理を始めた。  次の学生の生徒さんが来るまでにはまだ2時間少しある。こういった空いた時間はだいたい事務処理をするか、銀行に受講料を入金に行くか、事務用品を補充に行く等、やることはだいたい決まっていた。とりあえず会計ソフトに経費や売上を打ち込むのだが、尾上さんの口元や、やさしい眼差しや微笑みが頭の中を駆け巡りなかなか集中できなかった。  梅雨の時期は思ったよりも短く6月から7月に移り、日々の温度は上昇し暑苦しい日々が続く。  尾上さんは塾を辞めることも無く順調に通ってきている。英語の実力も上がってきて英検準1級も合格しそうなのだが、テストを受けるつもりもないらしい。とにかく会話させできていればいいようで、英会話の時間がどんどん長くなった。英会話は特にフレーズを教えている訳ではなく、アドリブで話す感じで私がたまに訂正をしてあげれば良かった。正直なところあまり教える必要が最初から無い生徒さんだった。  本日金曜日彼女が来るのを待つ。いつもニコニコしながら勢いよく入ってくる筈だったのだが10分遅れてやってきた。 「ごめんなさい」とだけ彼女は言うと、いそいそとテキストを机の上に置いた。  今日は会話よりも問題を解きたいと言う。教えているときも彼女のいつものリアクションは無かった。答えが間違って机をトントンと叩いて悔しそうに言い訳するところが、かわいげがあったのだが疲れているのだろうか? 間違っても「はい」と気の無い返事を繰り返すだけだった。やがて60分のクラスが終わった。いつもはここから1時間くらい喋り始めるるのだが、終わった瞬間彼女は黙り込んだ。 「お疲れのようですね」と彼女の目を見てゆっくりと言うと 「いえ、全然疲れてないんです」と何ともいえない疲れた顔で返事された。  深く聞きべきではないとも思ったが聞かざるを得なくなった。 「何か悩みごとでもあるんですか?」  そう言った瞬間、彼女はぐっ私をみつめて「相談してもいいですか」と返した。 「いいですよ」とやさしく返す。普通の生徒のようにドライに返せる雰囲気でもなかったし、むしろそうはしたくなかった。 「ふざけてると思わないでくださいね」 「はい」  いったい今から何を言われるのだろう? 「私、子供がほしいんです」 「はい」と答えたものの、この人には夫もいるし、そのことを突っ込んで聞いていいのかも分からない。 「結婚してもう5年になるの」  少しづつかみ締めるように喋り、彼女は私の目を確認するように見つめてくるのは嫌いではなかった。心の底を探られてるようでドキドキした。 「ずっと、やってるんだけどできなくて、、、」微妙な主語の省略が艶かしく、彼女の口調がカジュアルになったところに生暖かい親近感を感じた。  「不妊治療とかはされたんですか?」  私はまるで産婦人科のドクターのように冷静を装い口調を変えずに聞いた。 「主人は忙しいとかめんどくさいとか言って、かなり嫌がってたんだけど、私と夫の両方を調べるのが前提だからって、なんとか説得して、夫の精子を家で回収して、、、」  家で回収とはどうやって?と好奇心のままに聞いてみたかったが、彼女の真剣な表情がそれをさせなかった。  「夫が無精子症らしくて、全く手段がないわけではないらしいんだけど、、、それには、夫婦そろって病院に通ってお互いに痛い思いして、、、それに赤ちゃんが100%保証されてるわけではなくて、、、」  彼女は言いにくそうに説明をしていく。
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