背徳への入り口

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 台風の金曜日のことがあって以来、私の精神は尾上さんに占有された。  暴行や暴言しか受けていないはずなのだが、その一つ一つに奥深い愛を感じた。  母親を結婚前に病気で亡くし、それ以来心の中に大きな穴が開いてしまった自分は、今子供の頃に母親に叱られたことを思い出している。  美しい母親から叱られたことが、今日の体験で美しく蘇ってくるように感じた。  尾上さんに叱られるたびに子供の頃失ったものがよみがえってくるような気がした。 最近仕事中にぼーっとすることが多くなった。受講してくる生徒に勉強を教えるときも、関係ない事を考えてしまう。  尾上さんとのひと時に待ち焦がれて金曜日に近づくにつれて心が弾んだ。  この気持ちを持ち続けることは仕事中は容易にできたが、家に帰ればこの思いを完全に隠す必要があった。  尾上さんへ初めて提供をして以来、私は妻を抱いていないのだ。相変わらず妻は基本的に私に求めてこないし寝室は別だった。育児に忙しいと思うのでお互いに好都合のはずだった。  今日も意図的に遅く帰宅してすぐにシャワーを浴びて隣の寝室に入る。  いつもお風呂は朝に入るようにしているが、最近帰宅するとすぐにシャワーを浴びるようにしている。  本来ならば金曜日だけ帰宅した時にシャワーをすれば良いのだが、それだと金曜日に尾上さんと交わっていることがすぐに妻にばれてしまうのだ。  都合がいいことに今年の8月はとても暑い日が続いた。  ただ服を脱いで風呂場の鏡を見ると目の前の厄介な問題にため息がでた。体中に引っかき傷や打撲の後が目立った。尾上さんとの関係との代償は容易に隠せるものではなかった。 彼女に頼めばなんとか傷つけるのを止めてくれるのかもしれない。  でもそれによって嫌われたくはなかったし、傷つけられることでの快楽は容易にすてれるようなものではなかった。  シャワーが終わると、つい先程、自分でため息をついていた傷だらけの身体を、満足そうに見ている自分がいた。そして尾上さんのことを妄想する。  自分の心は完全に彼女しか考えられなくなっていた。  妻と息子の寝室を覗きもせずにまっすぐに隣室に入ると。真っ暗な部屋の中で眠たくなるまでスマートフォンをいじる。  眠くなったので、もうそろそろ枕元にスマホを置いて眠りにつこうとした時、部屋のドアが少し開くのが分かった。素早く目をつぶり既に寝ているふりをする必要があった。  なぜなら妻が、真っ暗な部屋をゆっくりとこちらに歩み寄り私の寝ているベッドの横に来たからだ。  上からじっと寝ているかどうか顔を見ているのが気配で感じとれた。  妻は私の頭をやさしく撫でた。いつもならうれしくてすぐに反応するのだが、頭の中には尾上さんのことが頭によぎり、寝たふりを続けた。  尾上さんを裏切ることはしたくなかったので、寝息を大きくして眠りが深いことをアピールした。  妻の手が頭から離れた。  やっと解放された。  妻は静かに動き出して離れて行った。  私はゆっくり静かに大きく息を吐いた。  やっと寝れると思った瞬間、急に布団が動いた。  背中の方から少し冷たい空気と妻が入ってきた。  妻は背中に顔を押し付け手を私の胸の方にまわした。  どうやら私をじわじわと起こして行きたいようだった。  彼女は胸をおしつけたり耳を撫でたり手を握ったりと、私を起こす為にあらゆることをやってくる。 「う~っ」  私は相当疲れてうなされている様な感じで起きれない状態であることを演じた。身体の傷を発見されると面倒なことになる。  妻は軽く鼻を触ったりしていたが、ようやくあきらめたようだった。 「うそつき 寝たふりして」  冗談とも本気とも言えないような独り言、もしくは捨て台詞をささやいて、妻は出て行った。  見つかってしまったのだろうか?   確かめたかったが起きるわけにはいかなかった。  その後はなかなか眠れなくなった。  余計なことばかり頭の中に浮かび、大丈夫かどうか脳内で確認していくので、眠りにつけない。  まさかばれたのでは?  妻は自分の携帯等を見ていたのかもしれない?   いやしかし、携帯には何も証拠になるようなモノはないはずだ?  1ヵ月もセックスしていないので、ただ妻が欲求不満になっているだけと思いたかった。  そんな些細なことをジメジメ考えていると、だんだん明るくなっていき夜が明けた。   ベットからゆっくりと出て大きくふらふらと歩く。 もちろん眠かったからなのだが、 私はこんなに疲れていました! という自己防衛の為に動作を大げさにする。  リビングに入ると奥のキッチンで妻が朝食を作っていた。息子はまだ奥で寝ていると思われる。 「おはよう」と挨拶すると、妻からはいつも通りの変わらない感じで挨拶を返されて応対された。  昨日のことを聞きたかったが、なかなかそのままダイレクトに聞くのは難しかった。 「昨日さ、隣に来た? ごめん俺寝ぼけてたみたいで?」  妻は不思議そうな顔で「ううん、来てないよ」とだけ答えて、おかずをテーブルの上に並べていく、明らかに妻は嘘をついているのは分かっているのだが、寝ていたということになっているので、これ以上聞きなおすことはできなかった。  私の最近の行動が裏切りに満ちている分、家で過ごすことが苦しかった。  いつもは朝はのんびり家にいることが多かったのだが、ここ最近は仕事がとても忙しいということになっている。幸い500万円もらったので家庭に入れるお金を若干増やすことができた。  妻はまだ何も気付いていないはずだ。
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