妖しい愛」の行方

3/3
前へ
/51ページ
次へ
 皮肉なことに、章子と会えないときはこの恋愛は私に苦しみしか与えない。  どう妻にこの別れ話をきりだせばいいのか? 仕事中でさえ考えてしまう自分がいる。皮肉なことにこの大きなことを決断した後に限って、頭の中に結婚する前や、結婚直後の楽しい記憶が甦ってくる。  海辺のイタリアンレストランで、3時間かけてやっと好きだと打ち明けたこと、  披露宴の音楽決めや余興の計画を二人で練ったこと、  新婚旅行のこと、  初めて息子が授かったと分かった日のこと、  出産に立ち会ったこと、  息子が初めて歩き出したこと、  お互いの両親の顔、思い起こせば離婚に向けていろいろな決断を出来なくなるのは分かっていた。少しでもこのような記憶が頭の中に甦ろうとすると、急いで章子のことを思うようにした。  章子は、今彼女の夫から暴力を受けていないのだろうか?  それともさみしく放って置かれているのだろうか?  夫は浮気を重ね愛人をつくって妻には命令し暴力で干渉するなんて、考えただけで激しく怒りがこみ上げた。章子の夫はなんて最悪なのだろう。  やはり章子を守らないといけない。  守るということでは、同じことが妻の志穂と息子にも言えるのかもしれないが、残念ながら、志穂と息子に対する愛情は、章子のそれに比べるとひどく小さく見えた。  そしてまた章子のことを考える。今彼女は夫に抱かれているのかもしれない。  自分と同じようなことを章子はあの男にしているのだろうか?   いやヤラされているのだろうか?  今度は夫に対する激しい嫉妬心と怒りが持ち上がる。  章子の心は自分のものなのに、なぜかあの男が章子を抱いている。許せない。  自分の心が恐ろしく動いて動揺している。そしてこの動揺は止められそうになかった。 心を落ち着かせる為にスマートフォンの写真アプリのアイコンに指を置く、数え切れないほどの章子との写真を眺めて大きく息を吐きだす。  このようなストレスフルな状況の中で、最終的に自分の離婚へのモチベーションを高めるのは「章子を抱きたい」という性欲だった。  写真には惜しげもなく美しい裸体をさらした章子がいる。何回も見たお気に入りの、性器だけを大写しにした欲情的なものから、美しいポートレイト写真と動画まで、全部鑑賞するには数時間かかるほど大量にあった。  もともと、こそこそと職場のパソコンのファイルの奥底に隠していたものだが、最近は堂々とスマートフォンにいれたままにしている。  いっそ妻に見つかった方が簡単に離婚の説明ができる気がした。  木曜日になった。運命の金曜日が近づいてくる。  今度の金曜日の夜に私は妻に離婚を切り出すことに決めた。  章子と日中愛し合った後、その足で妻に話しに行く。妻は逆上するかもしれない。泣き喚くかもしれない。思い切り私を軽蔑することだろう。思い切り殴ってくれたほうが気が楽かもしれない。 ほぼ満月の夜だった。世間ではスーパームーンが来たとかで、ニュースで言っているのは知っていたが、大きな満月が出たと言うこと以外は何も知らない。  木曜日の深夜にいつものように塾からひっそりとアパートに帰ってきた。  最近数ヶ月、帰ってきても妻と息子の寝顔さえも覗かなかった自分だったが、今夜はすこし違う気持ちだった。  明日の夜、妻に離婚を切り出すことを考えると、二人の寝顔を見つめるということは今夜が最後になってしまう。妻と話をするのはどうしても避けたかったが、一目だけどうしてもその光景を焼き付ける為にみておきたかった。  家の中はとても静かだった。妻と息子が寝ている寝室の前に来るとそっとドアを押し開けた。カーテンの間から光が漏れて、妻と息子の顔が明るく照らし出されていた。  妻や息子を起こしてしまうことを恐れていたが、見る限りは、ぐっすり眠っているようだった。  二人の寝ている場面を脳裏に焼き付けると、二人を起こさないように早々と寝室から出て浴室に向かった。  10月になったからだろうか、アリバイの為に毎晩行っているシャワーは少し肌寒かった。いつもより早くシャワーから出ると、急いで服を着て自分のベッドに向かった。 ベッドの上に寝て、妻が交換してくれたと思える、いつもより厚めの布団を頭からかぶる。 目をつぶって呼吸を整えてあわよくば眠りに落ちたいと思った。今夜は寝苦しくなるのはわかっていた。  金曜日の朝、目覚ましの音で目を覚ました。  絶対に昨晩は眠れないと思っていたのが、結果的に寝れていることに少し驚いた。 ただ寝てる間あんまり良くない夢でも見たのだろう。汗を沢山かいていて眠りが浅く朝の爽快感というものは無かった。  台所の方で、妻がいつものように朝食を作る音がかすかに聞こえてくる。  安らかに彼女の朝食が食べれるのは、今日が最後になる。これから先に起こる事を考えると居間に出て行くのが億劫だった。 「おはよう。昨日も遅かったのね」  妻は私の気持ちとは反比例な挨拶をした。息子がトコトコと近づいてきて、ありったけの笑顔で抱きついてくる。いつもなら息子を抱き上げるのだが、この時ばかりは罪悪感で、急に息苦しくなり吐き気までした。  妻がお箸を目の前に置いてくれて、ご飯と味噌汁をと目玉焼きを置いてくれる。 暗黙の家族のルールで、ご飯をつぐのは私の仕事だったのだが、最近はそれをしなくて良くなっている。  食事中、私は妻や息子が話しかけてもなるべく返事だけで返した。いつもは疲れた芝居をしてそうするのだが、今朝は罪悪感に押しつぶされそうなので純粋に息苦しくてできなかった。そんな状況の私は「顔色が悪い・病院に行くべき」等散々妻に心配されて窮地に追い込まれた。 「俺に構わないで!」  ふつうに言うつもりだったが声が大きくなり怒っているように聞こえたようだ。なぜなら息子が震えるように泣き出したからだ。 「仕事に行ってくる」  泣いている息子を慰めている妻を置きざりにして、急いで寝室で着替えるとカバンをひったくるように拾い上げた。 「あなた!」  居間を通り過ぎて玄関に向かう途中妻は私を呼び止めた。なんとも哀しい顔で私を見てくるのに、なぜか同情ではなく怒りが湧き上がってきた。 「おまえは子供をだまらせろ!」  今度は恐ろしいほど声を張り上げて彼女を怒鳴りつけ玄関に走りドアを思い切り蹴り開けた。  ここまでの醜い醜態を家族に見せたことは無かった。最低最悪の行為だとは分かっていたが、これからもっと最低にならなければいけない事を考えると懸命な現実逃避の選択だった。  外にでるといきなり酸素が増えたようで呼吸が楽になった。  とりあえず章子のことだけを考えられることがうれしかった。  塾までとことこ歩きながら今日のことを考えた。  不思議なことに自分の離婚に関しては困難があるとは思えなかった。息子の親権は妻に渡し慰謝料をいくらか払えば良い。  章子と比べれば比較的スムーズ離婚できると信じていた。私の中では、章子の離婚がスムーズに行くのかどうかというのが一番の心配ごとだった。  章子の夫とはいずれ会って話し合わないといけない。一筋縄ではいかないだろう。そんなことを考えていると段々と興奮して歩くのが早くなった。  その前に、はたして章子は離婚する勇気があるのだろうか? 素朴な質問が頭をよぎった。彼女にも強い気持ちを持ってもらわないといけない。  万が一、章子が私との愛より夫の資産の為に我慢する道を選んだら?そんなありえないことまで考えてしまう自分が情けなくも思えた。  コンビニで鮭のおにぎりとサンドイッチを2つと無糖のコーヒーを買うと塾に向かった。朝食の途中で家を飛び出してきたのでお腹がすいていた。  塾に着くと、飢えた犬のようにこれらに喰らいつく。時計を眺めるとまだ9時だった。章子が来るまでにはまだ時間があった。 いつものように金曜日のクラスは入れてないので何もすることがない。正直眠たいのだが気持ちが高揚してそれどころではなかった。  ひととおり何をすべきか考えた後、いつのまにかビールを飲み始めた自分がいた。
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加