さよなら

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さよなら

 最後に自分の署名をして、顔を上げて妻を見ると彼女も泣きながら私を睨んでいた。  目の前の印鑑入れからゆっくりと印鑑をだし朱肉をつける。  これを押せば全てが終わってしまう。私は助けを求めるように妻を見つめた。  なぜこんなことをしてしまったのだろう。  奇跡でも起こって無かったことになれば良いと思った。  妻はゆっくりと腕組をして「捨印も忘れずにしといてね」と優しく言った。  捺印が終わるや否や、素早く妻は離婚届を回収して、あらかじめ用意していたと思われるスーツケースを玄関まで運び始めた。 「もういくのか?」  これ以上喋るともう泣き崩れそうだったが、志穂に迷惑をかけるわけにはいかなかったので必死に我慢した。 「家裁道具は全部置いていくね。博人も私も思い出したくないから、じゃあ」  それだけ言うと妻は玄関から出て行った。  玄関のドアの閉まる音が部屋に響いた。  私は とうとう一人ぼっちになってしまった。  本能のまま動物のように生きたお馬鹿な男が、全てを失い途方にくれている。  めちゃめちゃに壊してしまった絆や信頼はもう戻らない。  そして詫びる者さえ失った。  いやもしいたとしても、その勇気と気力さえもなかった。  ただ、私が詫びれるものは天国の母ただ一人。  何時間寝ていたのか分からないが、床で寝てしまったのだろう。  家の電話の呼び出し音で目が覚めた。  入院していたので体内時計がおかしくなってしまったようで、部屋に差し込んでいる光から、もう朝になっていることに気付いた。  約20時間近くも寝ていたことになる。  電話は一旦切れたらまた鳴り出し、鳴り止んでまた少しすると鳴り出す。どこの誰だか知らないが、電話を取る気にもなれなかった。  どうせ週刊誌の記者とかそんなとこだろう。出たら大変なことになるかもしれない。そう思って何度も電話の呼び出しを無視つづけたのだが、何度も何度もしつこく携帯は鳴り続けていた。  もっと現実から逃げていたかったが、目を覚まさずにはいられなかった。  よろよろと電話の前に行った。そして電話に1度だけでてみようと思った。  なぜなら、ひょっとしたら妻かもしれないからだ。  祈るような気持ちで受話器をとった。 「もしもし」と慎重に答える。 「もしもし」と答えたのは男の声だった。 「もしもし、私です。刑事の吉田です。元気ですか?」  病院に来た禿げた冴えない刑事だった。話したくない相手なのだが、週刊誌の記者でなくて良かったとも思った。 「昨日妻と離婚しました」  早めに切り上げたかった。本当のことを言って同情させて通話を早めに切り上げさせる作戦だった。 「そうですか」  予想に反して刑事は一切同情せず一言だけ返した。 「いったい何の用事ですか?」  声がストレスで震えた。 「実はですね、あの事件のことで確認したいことがありまして」 「入院している時証言した通りです」 「いや証言したとおりではないんです」  刑事は本題に切り出した。どこまでこの刑事は事実を掴んでいるのかということに興味があった。 「興味がありますね。教えてください」 「はい、よく聞いてくださいね」  刑事の話声は病院での声とは違い明らかに興奮しいていた。 「えーと、どこから言いましょうか! 先ず、犯行現場に倒れていた三脚についたビデオこれが不思議なんです。ビデオのマイクロチップが入ってないんです。これどう思います?」 「それは入れ忘れただけです。よく外しますから」  やっぱりソコをついてきた。あんまり話すとボロがでるので短めに反論した。 「そうですか」  刑事はがっかりするわけではなく会話を続けた。 「ではこれはどうですか? 部屋に残っていたマグカップを使って床の上でなんか潰した形跡があるんです」  これが電話でよかったと思った。  私は声では無関心を装い「知らないです」とだけ言った。 「そうですか、それは残念ですね」  絡みつくような喋り方がイライラさせる。 「話は以上ですか」  早く電話を切りたかった。 「いや、まだ聞きたいことは沢山あります。被害者、いやあなたの証言では加害者でもありますね。あの、例の奥さんなんですが実は2回刺されてるんですよね」 「はあ」  だんだんと外堀を埋めていくこの刑事の性格は、かなり悪いにちがいない。 「鑑識の結果なんですが、刺したあと一度ナイフを抜いて、傷に沿ってもう一回ナイフを入れなおしてるんです。すごいでしょう」  相槌さえも打つのが難しくなってきた。刑事は得意気に話し続ける。 「私の推理を聞いてください。あなたはあの実業家の旦那と奥さんをめぐって格闘になり、誤ってあなたが彼を刺した。そして何らかの理由で、あなたは女が自分を騙していたことを知り、ナイフで女を刺した。  焦ったあなたは刺した順番をごまかすことを咄嗟に思いついたが、死体と死体の距離が遠かったのでナイフを動かす必要があり一度ナイフを抜いて男の指紋をナイフにつけた。   ただあなたはここで、自分達がビデオ撮影をしていたのを思い出し、ビデオからマイクロチップを取りだし、マグカップで粉々にしてどこかに捨てた、というのはどう思いますか?」 「小説の読みすぎじゃあないですか? 2度刺したことが証拠になるんですか? 考えてみればあの旦那さんは刺した後、手を動かしてましたね。そういえば、2回刺したかもしれません」  言い訳するや否や、刑事はかぶせるように私を追い込んでいく。 「そう言うと思ってましたよ、ちなみにナイフを買ったのは持ち込んだ旦那さんでなく奥さんのようですね。  そして、あなた病院でマイクロチップ気にされてたようですね? 病院の方とあなたの元奥様が証言されましたよ。あとお探しのマイクロチップの断片は、鑑識が回収しています。塾のある雑居ビルあんまり外の通路の掃除をしないようですね。危うく見逃すとこでした。  あとビデオにも、うっすらあなたの血のついた指紋が付いてましてね。  あとからマイクロチップを取り出したのはバレバレですよ。あとは鑑識がマイクロチップが修復できるかなんですがね」  やっとここで、刑事の決め付けたような説明が終わった。 「とにかくあなたの言っていることは全部間違っています。騙されたのは私なんです。私は被害者なんです。警察は正義の味方でしょう。とにかくあなたの言うことは全て間違っている」  私は受話器に向かって大声で叫んだ。  刑事はしばらく沈黙した後、 「わかりました。話はゆっくり署で聞きましょう。今からすぐにお迎えに行きます」と言うと電話を切った。    しばらく放心状態で通話が切れた音を聞いていた。  そして年をとった老人のようにゆっくりと受話器を電話に置いた。ゆっくりと立ち上がり居間を抜けテラスへの窓を開けた。いつもは滑りが悪いサッシの扉は、地獄に向かう私を歓迎するように、今日だけは滑らかに開いた。  テラスにでて、洗濯の合間に妻が座るために置いているイスを、外壁に付けてよじ登った。テラスから下を見ると、12月なのに生暖かい風が私を包んだ。  幸いここは8階で自分の望みは叶えられそうだった。  飛び込むことに躊躇はなかった。  自殺をすれば必ず地獄に行くという幼い頃の母の教えを思い出した。  しかし、お世話になった母親にこそは会えないが、地獄に行けば間違いなく会える人がいる。  はたして章子は私のことを本当に愛していなかったのだろうか?  章子は私を地獄で待っている!   その疑問を解決するために、私は勢いよくこの現実から飛びだすために、 傷だらけの身体を勢いよく空に押し出した。                                終わり
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