気が付けば四半世紀

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 ふと、思った。  ただのうのうと日々を過ごしていただけのわたしが、いつの間にか25年も生きていたらしい。25年といえば、100年の四分の一……四半世紀も生きてきたことになる。というか、それもじきに終わろうとしている。あと3ヶ月もすれば、26歳の誕生日を越してしまっているというこの現状に、少しばかり焦らないわけでもなかった。  考えてみれば、わたしはろくな経験を積んでいない。  たまたま大きな怪我もせず、小さな風邪こそ何度もひいてきたが、それを(こじ)らせることもなく、大きな伝染病にかかることもなく、比較的健康的に過ごしてきた。  人間関係で言っても、人並みに友人がいて、人並みに恋人のいた時期があって、人並みにいろいろな方面での付き合いがある――何も特別なことなどない、ごくごく一般的な人生だった。  正直、それが悩ましい。  もしかしたら、誰かに裏切られたり裏切ったり、誰かを亡くしたり大病を患ったり、はたまた好奇心のままに行動して手痛い対価を払ったり――そんな経験をした人々からすれば、わたしのこんな感傷は贅沢に過ぎる悩みなのかも知れない。  しかし、失礼を承知で言わせてもらうならば、わたしにとってはそういう痛み(・・・・・・)こそが、羨ましく感じてしまうのだ。それに触れる機会――危険性とも言い換えられる――の多かった年代を無難に超えて来てしまったわたしにとっては。当時臆病で、行動力がなくて、大人しく過ごしてしまっていたわたしには。  今では、行動範囲も多少広がったし、出たとこ勝負に出られるだけの無鉄砲さも身に付き始めている――でなければやっていられない仕事に就いたということもあるが。しかし、わたしが羨む経験というのはその全てが、『今更するようなことではない』ことばかりなのだ。どうしても、次の仕事に響いてしまうだとか、周囲からの目だとか、そういうものを気にせずにはいられない。  だから、今更自由になったところで、この手足を動かすことはかなわない。  その代わりに、わたしは空想するのだ。100なんかではきかない数の後悔を、その数だけ物語に変える。平凡なわたしが辿れなかった物語(じんせい)を、歩き直すために。  これは、わたしが人間を探す(・・・・・)いくつかの話だ。
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