100回目の誘惑

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100回目の誘惑

 不意に、持っているレンチを振り下ろしたくなった。その先には、わたしの父がいる。  久々に戻った実家で父から頼まれたのは、車のタイヤ交換を手伝うことだった。冬のスタッドレスタイヤから、通常のものに交換したいのだという。  今まではひとりでもできていたことだったが、去年神経の病気を患ってから日常生活も少しずつ難しくなり始めてきている父は、わたしがその頼みを聞き入れたときに少し喜んでいる様子だった。わたしもわたしで、しばらく家を離れてホームシックにでもなっていたのかも知れない、そんな父の姿に、ほんの少しだけ、親孝行みたいなものをできたような気がした。  とはいっても、わたしがしたのは本当に簡単な手伝いだ。レンチで父が緩めたネジを取ったり、新しくつけたタイヤのネジを軽く締めることくらい。それ以外の作業はほとんど父がしていた。  帰ってきたときに母から『お父さん、すっごい会いたがってたよ』と聞いていたので、もしかしたら手伝いというよりはその間の雑談が父のなかではメインなのかも知れない。そう思うと、わたしが子どもだった頃より小さく見える父のことが、なんだか可愛らしくすら思えてきた。  いよいよ作業も終わりそうな段階。父が最後、屈み込んでネジのしまり具合をチェックしているときのことだった。 「ほんとにありがとな。もう病気してからいろんなことがひとりじゃキツくなっちゃって……」  そう、昔はめったに口にしなかった感謝の言葉をこちらに向けながら、無防備に後頭部を曝している父を見たとき。  どうしてだろう?  不意に、持っていたレンチを振り下ろしたくなった。無慈悲に、なんの遠慮も呵責もなく、手加減なんて一切せずに。  断っておくけれど、わたしは父のことを嫌っているわけではない。確かに、上から目線のきらいはあるし、そこは苦手ではあったけど、別にそんな暴力を振るいたいと思うほど嫌いなわけではない。  けれど衝動的に、父の白髪混じりの頭に、振り下ろしたくなったのだ。  きっと父は今、わたしを信頼しきっている。そんなわたしが急に、なんの前触れもなく、凶器になりかねない物を振り下ろしてきたら、どんな反応をするだろう?  怒るのだろうか? それともまずはレンチを防ごうと手をかざすのだろうか? もしかしたら、あまりの出来事に泣いてしまうかもしれない。自分が何をしたのだろう? こんなことをされなきゃいけないことをしたんだろうか? どうしてこんなことを?  きっといろいろなことを考えてしまうだろう――そう思うと胸が痛くて、わたしの方が泣きそうになってしまう。  なのに、何故こんなことを考えてしまうのだろう?  先に階段を降りていく親戚の子を見ているとき。  水泳で手繋ぎ練習をしているとき。  床でうたた寝する友人を見ているとき。  きっと同じ場所にいるわたしが害意を持っていないと完全に信頼してくれているのだろう姿を見たときに、ふと首をもたげてくる、醜い誘惑。  今まで生きてきて、何回その誘惑に襲われただろう。何回、衝動に駆られただろう。わたし自身の臆病さのおかげで踏み留まれているこの欲望に、わたしはあと何回襲われるのだろう?  あぁ、苦しい。  いっそこの苦しみのままに、振り下ろしてしまいたい。これ以上、そんな気持ちで苦しめないでよ……!  そう叫んでしまいそうになったとき、ようやく父は顔を上げてこちらを見た。 「うん、大丈夫だ。お疲れさん、ゆっくりしてて」  ようやく終わった。  やっと、解放された……。  暗くなり始めた空の下、わたしたちは温かいわが家へと足を進めた。
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