彼女について

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ただ一言、彼女が放ったその言葉は、僕の耳には到底届くはずもなかった。僕は彼女の両手に釘付けになっていた。僕が今まで見てきた中で、一番素晴らしい手だった。まず、手の形が左右非対称なのだ。僕は一人の画家として、アシンメトリーこそ絶対の正義だと信奉していた。今でもそうだ。だからカリカチュアを描くときには必ず左右非対称にした。その方が、人間は美しいのだ。 「……ああ、すいません。カリカチュアですか? 」 彼女が僕の視線に気が付き、おもむろに手を隠すような動作をして、僕は初めて彼女が客であることを認識した。 「いえ、そっちじゃなくて、リアルな方」 「ああ、えっと、はい」 僕はそう言って折り畳んでいたイーゼルを引っ張り出し、そこに下敷き用の板を乗せ、その上に画用紙を貼り付けた。A3サイズ。それから彼女をイーゼルの目の前に置いたスツールに座らせて、仕事道具の鉛筆を握った。 絵を描きながら彼女に色々と質問をした。たとえば、生い立ちや、嗜好などについて。背景となる抽象画を仕上げるのに、客のことをできるだけ詳しく知る必要があったのだ。彼女は特に嫌がる素振りも見せずに、飄々とした様子で答えた。きっと慣れていたのだろう。 「生まれつきの奇形なんです」 鉛筆の音が鳴っていた。 「遺伝子の欠陥だか、なんだかで。お陰で周囲からはずいぶんと気持ち悪がられましたし、疎まれました。だからと言って、別に両親を恨む気はありません。ただ運が悪かっただけのことです。そして大抵の場合、運の悪さは努力で補えます」 「つまり、自身の境遇を呪ったことはないと?」 「ええ」     
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