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彼女について
「ねえ、あの時に言った言葉、覚えてる?」
「あの時?」
「うそ、忘れたの?」
「えっと、ごめん」
冷房の効いた喫茶店で僕はアイスコーヒーを頼んで、彼女に肩を小突かれた。夏も間近に迫った空梅雨の季節だった。日を追うごとに強くなる日差しに目を細めながら、僕たちは日常を生きていた。飛び抜けて幸福というわけではなかったけれど、交際はそれなりに豊かなものだった。つまり、僕たち二人が揃うことで何かがプラスになることはなかったけれども、少なくとも互いに空いた穴を埋め合うことはできた、ということだ。そんな関係だった。
そうして僕は偽善者で、彼女の指は百本だった。
五十本の指が扇状に生えた右手で、彼女は器用にアイスラテを飲んだ。五本指には五本指なりの、五十本指にはそれなりの持ち方があるのだという。実際、彼女はどんなことも人一倍器用にこなした。
彼女は不貞腐れたように言った。
「もう言わないからね」
「拗ねないで教えてよ」
「君が忘れたのが悪いんでしょ」
「謝るから」
つん、と彼女はそっぽを向いたフリをして、それから冗談めかして笑った。
「今までありがとうね」
「何だよ、今生の別れみたいに」
彼女のコバルトブルーの瞳が微かに潤むのを見て、冷水のような不安感がよぎったのを僕は覚えている。でも僕はきっと、そんな予感を信じたくはなかったのだ。だから僕はお茶を濁すようにして、カフェテーブルに載せられた彼女の左手を握った。彼女の細やかな指たちが、上質な柔毛のように僕の指を包んだ。ゆるやかな時間が流れていた。僕はそんな時間が、この先も続くものだとばかり思っていた。
その日の夜のうちに、彼女は左手を包丁で切り落として死んだ。シンクは血の海だったという。
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