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あいのはなし
はじめの一歩が肝心なのは百も承知だが、なかなか踏み出せずに躊躇していた。
これを登ってしまったら、今の自分には戻れないような気がしたのだ。
私はその場でうろうろと意味のない動きを繰り返し、長い時間をかけ、ようやく決心し一段目に足を乗せた。
周囲の景色が歪む。
子供の泣き声と、それをあやす母親の声が聞こえる。
それはとても優しい声で子供の名前を呼んでいた。
「いいこ、いいこ。」
泣き声はだんだんと小さくなり、寝息へと変わっていった。
柔らかな日差しと、心地よい風が頬を撫でた。
母の胸は温かかった。洗濯物の甘い香りと、畳の匂いも懐かしく、私はこの世に祝福されて生まれてきたのだと思った。
次の一段へ足をかける。
それは、父にこっぴどく叱られている様子だった。
小さな子供が襖へ落書きをし、母はその襖を呆れた様子で見ていた。
子供はついに泣き出し、父は叱るのをやめ、一冊の自由帳を差し出した。
「ここになら、なんでも好きなものを書きなさい。」
子供はまだ嗚咽を漏らしていたが、どうやら泣くのをやめたらしい。
ひゃっくりをしながら、もらった自由帳にお気に入りのクレヨンで、意味もない形を延々と書いていた。
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