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自殺志願
綾香の目の前には鉛色の海が広がっていた。朝早くから電車をいくつも乗り継いでやっとたどり着いたこの場所は、テレビドラマで馴染みのある有名な断崖絶壁の上だ。
天気が悪いせいか観光客も早目に退散した模様で、名勝は数人の物好きを残して閑散としていた。岬への道沿いに並ぶ土産物屋もそろそろ店閉まいの支度を始める頃だ。
鈍よりと雨が落ちて来そうな曇り空の下、とろみを帯びたような暗い海が穏やかに揺れながらどこまでも続いている。遠くに見える、なだらかな水平線の向こうには別の国があるんだ。そんな当たり前の事に綾香は改めて感慨深いものを感じた。左右には、ほぼ垂直にそそり立つ大きな岩石の柱の集合体が見える。
『柱状節理って社会で習ったんだっけ』
黒板に書かれた「柱状節理」の文字とチョークの匂いが思い出された。平穏だった十代が遥か昔のように感じられた。制服姿の自分が手を振りながらゆっくりと離れて行く。
そろそろ陽が沈む。春はとっくに来たはずなのに、海風はヒューヒューと真冬の北風のように冷たく吹きすさんで肌を刺し、今年新調したパステルグリーンのコートを足元からバサバサと宙になびかせた。穏やかそうに見える遠くの海面からは想像出来ない強風だ。
真下ではザブーンザブーンと岩にぶち当たっては砕け散る波頭の健気なチャレンジが続いている。自分が生まれる前から、そして死んだ後も何十年、何百年、何千年と、この勝ち目のない波頭のチャレンジは終わる事なく続くのだ。いや、僅かずつでも侵食して、いつかは敵を打ち砕くのか。そう思うと、とてつもなく壮大な時空が目の前でぐにゃりと捻じ曲がって見えて、綾香はふらっと目眩を起こしそうになった。
永遠に続くと思われる圧倒的な眺望を目の当たりにすると、一個体の死なんてシャボン玉よりも頼りなく儚いものだと綾香は思った。
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