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綾香はその後の事はあまり覚えていなかった。夢遊病者のようにフラフラしながらもちゃんと地下鉄を使って家に帰っていた。ベッドの下には昨日着ていたシャツとスカートが丸まっていた。頭がしっかりして来ると安藤の死に顔が頭に浮かんだ。圧倒的なリアルが洪水のように綾香を襲った。
『私、何てことをしたの……』
『安藤さん、ごめんなさい……』
『どうしよう、お母さん、私どうしよう』
『私、人を殺しちゃった……』
『私、どうなるの……?』
安藤はまだあの部屋であのままあの椅子にもたれて動かないままだろうか。
安藤の華奢な首の感触が綾香の両手にじんわりと残っていた。綾香は洗面所によろよろと動くと何度も何度も手を洗った。まるで手を洗えば全て無かった事になるように洗い続けた。水道を止めて顔を上げると、生気を失ったような見慣れない顔が鏡の中に映っていた。
『私も死ぬしかない……?』
『ウソ……死ぬなんて……』
『でも、これは夢じゃない』
『これは、リアル……』
『もう、私、死ぬしかないよ』
綾香はベッドの下に丸まった昨日の服に手を通した。『あ、新しいコート──』カーテンレールに先週デパートで買った春物のコートが何事もなかったように綾香を待っていた。爽やかなパステルグリーンが、それはただの悪夢だからと言ってるような気がした。綾香はコートを羽織って行く先も決めずに部屋を飛び出した。
自殺といって思いつくのはドラマでよく見る、あの崖の上しか思いつかなかった。綾香はまだ誰かの、もしくは架空の物語の中にいた。
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