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もうすっかり辺りは暗くなっていた。街灯の灯りだけが土産物屋の方向に見える。もう働く人は帰ってしまったのだろうか。目の前には見知らぬ男が唾を飛ばして何やら喚いている。誰? 何処かで知り合ったんだっけ? 綾香の頭の中は安藤の死に顔や、遣り残した仕事の事や、両親や祖父母の事でいっぱいだった。
男はまだ喚き散らしている。すごいエネルギーだな。綾香はもう何も感じなかった。この男が誰かなんてどうでもよかった。
「お前、死ぬ気なんだろー?」
男が綾香の胸ぐらを掴んだ。
「娘は生きたかったのに、生きれなかったんだ!」
「死ぬ気なら、そのいらん命、娘にくれっ!」
「あの馬鹿の看護師のせいなんだ!」
「娘は死にたくなかったのに」
「なっ? いいだろ?」
「なっ?」
男は綾香の胸ぐらをグイッと自分の方に引き寄せた。綾香は虚ろな目で男の口元辺りを見ていたが、もう逆らわなかった。
「娘の代わりに死んでくれやっ!」
男は最後にそう叫ぶと、ポ───ンと力任せに綾香の体を突いた。
綾香は叫ぶ間もなく一瞬ふわっと宙に浮いて直ぐ様、底無しのような闇の中にス──っと落ちて行った。
『ああ──私死んじゃう。お母さん……ごめんね』
綾香はグングンと落ち続けた。どこまでもどこまでも落下は続く。
『地面はまだ……?』
『 どこまで落ちるの……?』
『私…どこまで……』綾香は暗闇の中を落ち続けた。それは、とてつもなく長い時間、永遠に続くように思われた。
『お母さん』──心の中で愛しい母を呼んだ瞬間、ゴツッという鈍い音とともに綾香の意識は落ちた。
男は何事もなかったように、その場を離れた。街灯の下を通った男の顔は微かに笑っているように見えた。通り過ぎる男の後ろ姿の臀ポケットには全国の名所ガイドの小冊子が捻り込まれていた。
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