自殺志願

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 一年前の今頃、綾香は新入社員として今の会社に入社した。厳しい就職戦線の中で、本命ではない企業だったが、十分大手と言える今の会社から内定の知らせが入った時は、父と母は祭りのような盛り上がり方だった。祖父母も大変な喜び様で、わざわざ田舎から上京して祝ってくれた。そうなのだ。皆んなが心から喜んでくれたのだ。   『家族総出で馬鹿みたいに盛り上がって……今思えば滑稽な、不幸の前振りじゃないか。あの会社は本命じゃなかったなんて……綾香、そういう所だぞ』     綾香は思う、家族を喜ばせる事は何よりも大事な事だ。家族が幸せならば自ずと自分も幸せになれる。しかし今、綾香の頭の中に「幸福」の二文字は何処を探しても見当たらなかった。きっと何処かの時点で知らぬ間にコロコロと転がり落ちてしまったのだろう。  悲しいかなあの華々しいスタートラインが社会人としての絶頂期だったと思わざる得なかった。  綾香は入社すると間もなく総務部に配属され、主任の安藤の下で研修を受ける事になった。一対一での三ヶ月の研修が始まったのだ。それは「シスター制度」と呼ばれて仕事の事は勿論、仕事以外の事でも、とにかく社内で困ったことや解らない事はシスターに全面的に頼って良いという有難い制度だった。ちなみに男子の場合は言わずもがな「ブラザー制度」だ。  安藤は三十二歳の独身で、細見のすっきりとした色白美人だ。肩まであるストレートヘアは安藤が話したり笑ったり、イスから立ったり座ったりする度にサラサラと動いて良い匂いがした。安藤は自分から地方出身だと言ったが、ファッションにしろ仄かにつけた香水の香りにしろ──身につけるのに一番の難題であろう所作にしろ、全てが洗練されていた。服のセンスに自信の無い綾香はセンスの塊のような安藤の隣りにいるのは余り居心地のいいものではなかった。 「綾香さん。困ったことはない?」「なんでも聞いていいのよ」「遠慮しないでね」  安藤は綾香を下の名で呼び、綾香の事をまるでランドセルを背負った一年生のように事細かに世話を焼いた。綾香にしたら安藤の過剰とも思える面倒見の良さは回りの社員を意識しているように思えて、いささか窮屈で面倒臭いものだったが後に起こる意味のわからない安藤の自分への形の無い攻撃に比べたら、あの頃は天国のようなものだった。  もしかしたら、自分が窮屈がっていた事や面倒臭いなどと思っていた事もバレていたのかもしれない。そう思うとヒヤリと背中に冷たい汗が流れた。
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