Prologue:明晰夢

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 これは夢だ。  (たち)の悪い悪夢(ゆめ)だ。  妙に鮮明な意識の中、倉間結月(くらまゆづき)は己に言い聞かせた。  ひどく冷静だった。  呪詛を唱えるが如く、ただ繰り返す。そうでもしなければ、気が狂ってしまいそうだった。  雨音が騒がしい。  バケツをひっくり返したような土砂降りの泣き声が鼓膜を震わせている。足元のリノリウムからは、皮膚を突き刺すような冷気がずるりと這い上がってきていた。    目の前には、薄緑の患者服を着た黒髪の子供が立っている。自分とよく似た顔立ちの幼子だった。  零れ落ちそうなほど大きな橙の瞳は潤み、袖から覗く病的に白い小さな手で、必死に結月の学生服を掴んでいた。その手は震え、学生服に皺を作る。その震えは寒さが原因ではないと、結月は理解していた。  幼い子供は、今にも泣きそうな顔をしていた。「行かないで」と心から叫びたがっているかのようだった。  ノイズがする。  モノクロの映像が、脳裏で何度もフラッシュバックする。  忘れてしまいたいと幾度となく願ったが、脳に深く刻み込まれていて消えない幼い日の記憶だった。  もう遠い昔の記憶のはずなのに、それは何度も『夢』として姿を現しては、こうして結月自身にあの日の再現をさせる。まるで繰り返し演じられる劇のようだった。  きっと、舞台で無様に道化を演じる様を、どこかで誰かが見て笑っているのだろう。  ……所詮は、自分も人生という台本の上で踊る滑稽な役者にすぎない。 「……にい、ちゃん」  掠れて涙が滲んだ声だった。  己を呼ぶ声に、結月の胸が痛みだす。錐でグリグリと穴を空けられていくような、そんな痛み。息の仕方を忘れてしまいそうだった。  声の出し方も分からない。  何も、分からなくなる。  思考が、心が、壊れた機械のように死んでいくから、たった一人の弟の呼びかけにすら、結月は答えることができなかった。 「行かないで、兄ちゃん……! ねぇ、お願い……!」 「……しつこいなぁ」  唇が勝手に動いた。  冷えた声が己のものだったと、結月は一瞬遅れて気がついた。  気づいた時には、弟の顔には絶望が浮かんでいた。触れれば壊れてしまいそうな華奢な肩がビクリと揺れたのを確かに見た。学生服を掴む小さな手は、可哀想なくらい震えている。  あぁ、これ以上苦しめたくない。  頼むからやめてくれ。  そんな顔をさせるために、言葉を紡いだわけじゃない。  それでも口は勝手に動いて、壊れたラジオみたいに言葉を吐き出していた。 「もう構わないでよ」 「だ、だって、おれ、兄ちゃんが居なくなったら……!」 「お前にはお父さんが居るし、仲良くなったあの子もいるじゃん。ボクが居なくても平気でしょ」  心配と嫉妬が複雑に絡み合ったような言葉が、雨音と共に鋭さを増した。止むことを知らないそれは、無意識的に結月を責め立てる。言葉もなく、ただけたたましいその音で叱っているのだと、結月はぼんやりとした頭の片隅で思った。
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