きっかけ

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  若林尚之は、得意先の接待から帰ろうと、時計を見るとすでに終電は終わっていた。接待先のクラブでは、先方の重役たちが両脇に若いホステス、チーママを置いて、泥酔に近くなるほど、響をロックで飲んでいた。尚之は時計を見たあと、「栗田社長、もう時間も遅いですし、今日はこれくらいに……」と、苦笑いを浮かべて言うと、その栗田が、眉間に皺を寄せて、 「あんたね、若林くん。この中で君が一番若いのに、そんなんでやっていけるのかい。今僕らは楽しく酒を飲んでるんだよ。空気ってのが読めないから、君は女にモテないんだよ。あ、そうだ。千鶴ちゃん、来週誕生日だったよね? ドンペリロゼ、いっちゃおうよ!」 言うと、俯いて歯ぎしりしている尚之をよそに、ホステスたちは満面の笑みをたたえ、 「きゃー! 最っ高! ありがとお、本当に嬉しい」と栗田ともう一人の重役の腕に、薄いドレスから見える谷間を押し付けて甘えていた。それからボーイがシャンパンを持ってきて、恭しく、「いつもありがとございます」とポン、と子気味よい音をさせて栓が抜かれた。ホステスたちのグラスがピンク色に染まる。しゅわしゅわと弾ける気泡でさえ、尚之には夢の終わりに思えた。栗田やホステスをみて尚之は思う。自分は今年でまだ四十で、このハゲ散らかした腹の出ている狸たちより、断然男としてマシなはず。  目の前の飄々としている年長者に暴言を吐きそうになるのを歯を食いしばって止めると、尚之の隣にいるホステスは、そんな表情の尚之のことも気にかけて、「シャンパン、飲めますか?」と丁寧にグラスをそっと渡そうとしたが、尚之は不貞腐れた表情のまま、「僕は遠慮しておきます」とそれを制した。  ホステスはすぐに、ウイスキーの水割りを出した。尚之は勝手に盛り上がっている男二人を一瞥すると、なぜ自分よりこうもうまく女性を扱えるのか、悔しさが湧いてくる。俺だって金さえあれば、地位さえあれば。尚之自身も既婚者とは云え、一度くらいいい女といい事がしたい。尚之は目の前にあったグラスを一気に飲み干した。
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