きっかけ

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 尚之の家には恵の他、十七歳になる娘がいた。娘の名前は「(さち)」。名前を付けたのは尚之だった。尚之と恵は大学の同期で、尚之は人生で二人目の恋人だった。恵は大学時代、真面目で、清楚で、大人しく、勤勉な女だった。尚之も目立ったタイプではなかったが、お互い、スポーツより、読書の方が楽しい、という共通点から、友人の紹介で付き合い始めた仲だった。  尚之と恵は、大学を卒業すると、尚之は今の会社に就職し、恵も事務の仕事に就いていたが、就職一年目に、恵が妊娠し、そのまま、当たり前のように結婚したということだ。尚之は当時、仕事も楽しくて、恵との交際も順調だったから、恵の妊娠にはとても喜んだ。両家の親にもすぐに挨拶をしに行き、お互いが順風満帆という人生設計を思い描いていた。それから子供が生まれると、尚之は娘に、「幸」と付けると決めていた。理由は、 「恵の子供だから、幸せに恵まれるじゃないか。だから幸って付けるんだ」  そう言って、恵を喜ばせていた。恵も子宝に恵まれ、幸福で満たされていた。最愛の夫に愛されているという実感が恵の支えだった。  そんなどこにでもあるような、夫婦の愛情も、十七年の時を経て、若かったあの頃の甘い思い出も風化し、今では尚之は恵のことをちゃんと目を見て話すことをしなくなっていた。一方、恵の方は、懸命に家族のために働く夫を支えようと、家事や娘のことを日々、しっかりと向き合っていくことを続けていた。それが尚之を苛立たせるとは知らず、恵は尚之への愛情は変わらず持っていた。  尚之は缶ビールを飲み干すと、缶をぎゅっと握り潰し、ごみ箱へ捨てた。それからリビングのソファーに沈むと、そのまま目を閉じた。これがいつもの風景。寝室を共にしたとしても、セックスはもう随分していない。尚之も時々、自慰行為をしようと思うことがあっても、落ち着いてする場所もなければ、仕事で疲れてそれも面倒になっていた。だが、男として、このままでいいのかという危機感も、あの狸親父たちをいつも見ていると、自分が情けなくなるのは確かだった。
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