きっかけ

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 その日、終業時間が近づくと、今日は外回りもなく、事務作業をしていただけの尚之は、安物の腕時計を一瞥すると、帰り支度をした。  周りの社員も、若い者は帰りの支度をしっかりして、今からすぐに帰ろうとしんばかりに、用意万端の様子でいる。久しぶりに接待もないし、自分も早く帰ろうと、終業時間になると、まだ残って作業を続けている者に「お疲れ様、お先」と告げると、のっそりと部署を出た。  午後五時。まだ外は明るい。こんな時間に帰宅しても、妻の恵と娘に会うだけで、家に居場所なんかない。そう思うと、定時に帰るというのは不便なものだと思っていた。  尚之は、酒も強い方ではないため、行きつけのスナックや、居酒屋があるわけでもない。本屋にでも寄って行こうかと思ったとき、ふと、今朝塩崎がインストールさせた「ドキドキメール」のことが過った。ごくりと生唾を飲み込むと、スマホをポケットから取り出した。 すると、チャットアプリに未読のマークがついていた。それを開くと、相手は恵だった。 『お疲れ様です。今日の夕飯はあなたの好きなブリ大根を作りました』  と、「おつかれさま」と言っているウサギのスタンプを添えて送られていた。それを既読にすると、他には広告の通知しかなく、すぐにそのアプリをしまった。それから「ドキドキメール」を開いた。 「ドキドキメール」を開くと、「ログインしてください・新規登録」と出てきたから、新規登録の方をクリックした。すると、メアドの入力と、電話番号の認証画面が出た。それを入力して、パスワードまで作成すると、ちゃんとログインすることができた。  そこまで入力するのに、重たいバッグを抱えて歩きスマホで過ごしていたから、一旦落ち着いた場所でちゃんとアプリを操作した方が懸命だと思い、周りを見渡すと、チェーンのカフェが目に入った。尚之はそこに向かってどこか逸る気持ちを抑え、歩いて行った。
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