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M:小鼠ちゃんだか、小栗鼠ちゃんだか
逃げ出したい時に思い浮かべるイメージ。
俄雨に打たれ、水気を吸い込んだ草木は、どんなに澄明で瑞々しく清涼な香りだろう。それが揮発して、緩やかに枯死するまでに、生き物が纏う気配のような魂の匂いが好き。
干し草が鼻を掠め、擽ったい。膝を抱え、少女の頃の私が紺のスカートの裾を濡らし、キャンパススニーカーの爪先を握って笑う。もう名前すら分からない同じ制服の先輩が、爽やかに抱き寄せる透明な腕に頬を寄せた。
一秒毎に薄れていく、飛んでいく白昼夢。それは蜃気楼のように曖昧で靄のかかる幻。毎秒、色を増していったフラッシュバッグ。行かないでと叫んだところで届くはずない。その両の腕が解けたのはいつのことだろう。
雨の囁きも光の瞬きも感じ取れないまま、降ったり止んだり──行ったり来たりする、記憶喪失の私は何も見えず、風に飲まれた。
触れようとしても触れられず、追いかけ、走って泳いで飛んで、力尽き、立ち止まり、喘ぐように笑い泣き、頬を撫でる雫は涙で、焦燥に汗ばみ、振り返っても影も形もない。
真っ白なワイシャツの背中が風で膨らみ、緩慢に日焼けした素肌を伝って流れていく。灼けつくアスファルトに疲れて倒れ込んだ。あの眩しい光も、もう二度と降り注がない。
麦わら帽子が淡水色の木漏れ日を透かし、噴水のミストに妖精の燥ぎ声が谺している。緑がかった高音の降り注ぐ歌声は郷愁的で、遠い日の恋をしていた私も蝉の音に融けた。
あれから数年毎に、キレイになっていき、大人びた少女の殻が脱げ、女になった時に、きっと誰にだって、よくあることだからと、言い聞かせるように自ら慰めた私もいない。
どんな人にとっても美しいと感じる夏は、幻想と回想と狂想が折り重なるものだろう。
夏から秋になるまでの物寂しい空の儚さ、ピンクノイズの波音のする夜の海の静けさ、去っていった遥かな人について黙想する時、生きる意味について深く思い巡らせていた。
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