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先週の土曜日に岡崎夫妻に再会してからというもの、マンションのエレベーターに乗る度に二階に止まるんじゃないかとヒヤヒヤする。
幸いエレベーターで二人に出くわすことはなかったが、岡崎さんには明日にでも謝りに行かなくてはと考えていた。
『二年前のあの出来事は精子ドナーになろうとしただけだ』という自分への言い訳が心に根付いているせいか、自分が華絵さんの【不倫相手】だったという自覚はほとんどなかった。でも、やったことは不倫になるのだろうから、きちんと謝罪しなければならない。
それにしても、華絵さんは旦那にどこまで話したのだろうか。
浮気などしていないと全否定して丸く収まっていたとしたら、僕が謝りに行くのは藪蛇だ。一度、華絵さんに確認を取る必要がある。
サユさんに内緒で電話するのは後ろめたいが、華絵さんからサユさんに精子提供の話をバラされても困る。
こうしてまた僕は秘密を積み上げていくしかない。
***
翌朝目を覚ますと、隣にサユさんの姿はなかった。
例のごとくガバッと飛び起きて、敷布団に残るぬくもりを無意識に探る。
――まだ温かい。
電子レンジの扉の開閉音が微かに聞こえて、僕はホッと息を吐いた。
キッチンに立つエプロン姿のサユさんを目にして、ジワリと瞼が熱くなった。
サユさんは僕の裏切りを知っても尚、変わらずに僕のために早起きをして弁当を作ってくれている。
嬉しさと後悔と愛しさと罪悪感が、僕の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。それなのに、サユさんは屈託のない笑顔を僕に向けた。
「おはよう、マサくん。そろそろ起こそうと思ってたところ。」
「おはよう。サユさん、無理しちゃダメだって。弁当も朝食も僕が作るって、昨日言ったよね?」
抱き寄せてキスしようと伸ばした手を慌てて引っ込める。朝は頭が働かないから、衝動を抑えるのも一苦労だ。
「でも私、もうすっかり元気だよ? 昨日休んだ分、今日は早めに会社に行った方がいいでしょ?」
ハイどうぞとランチバッグと緑茶の入ったステンレスボトルを手渡され、玄関に置いてあるビジネスバッグの中に入れる。
いつもの日常が戻って来た。
これ以上綻びが広がったら、バラバラに壊れてしまいそうな危うい日常が。
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