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カウンターから見える狭い厨房には店主の息子がいて、僕に気がつくと満面の笑みで手を振ってくれた。彼の歳の離れた弟は店の隅のテーブルで宿題を広げていて、母親が給仕の合い間を縫っては見に行く。
相変わらずの微笑ましい光景は、僕の心を和ませてくれた。でも同時に、自分にはこんな温かい家庭をもつことは二度と叶わないのだと思い知らされる。
「彼女さんは元気?」
おばさんがカレーセットを僕の前に並べながら訊いてきた。
この店には何度かサユさんを連れてきているし、彼女と結婚するから引越すのだという話もしてある。それなのに僕が一人で食べに来たから、おばさんは怪訝に思ったのかもしれない。
「うん、元気だよ。でも……別れちゃった。」
「えっ!? どうして?」
「僕が悪いんだ。……それで、こっちに戻って来たから、またよろしくね。」
「そうなの。お似合いの二人だったのにね。これ食べて元気出して。」
「ありがとう。いただきます。」
サユさんと別れたことを口に出すのは、まだ辛い。『別れた』と言えば言うほど、後戻りできなくなりそうで。
もうとっくに後戻りなんか出来なくなっているのに、自分の往生際の悪さに笑える。
久しぶりに食べたおじさんのカレーはやっぱり旨くて、腹が満たされれば荷解きの意欲も湧いてきた。
傘を開いて、すっかり暗くなった道を歩き出す。
横断歩道の信号待ちをしていると、すぐ横の家の庭木に咲く黄色い花に気付いた。俯き加減に咲くこの花が【蝋梅】という名だと教えてくれたのは、サユさんだった。
寒い冬に優しく寄り添ってくれるような奥ゆかしい姿も、春を思わせる温かみのある色も甘いいい香りも、すべてがサユさんを思わせる。
「会いたいな。」
そんな本音が零れて、傘の柄をギュッと握り直した。
会いたくて会いたくて堪らない。
でも、そんなことを望む資格は僕にはもうない。
僕は今日からこの地でまた独りで生きていく。
とりあえず段ボールの山を片付けて。毎日朝から晩まで仕事をして。休みの日には松浦を探して。
だけど……その先に何があるというのだろう?
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