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私には、『死ぬ』の対義語に『生きる』と答える自信がなかった。
先生や親、友人、読み漁った本たちに問われたわけではないけど。
私の名前は雪音。
大学一年生で実家暮らし。年の大きく離れた兄がいてその子供が小学一年生だ。
兄に子供が生まれてから、母はおばあちゃんになって兄は父の姿になって二人とも少し老けたように思う。
兄を見る度に恋、愛、運命が正当化されている気がする。
けれど、私はもういい。
私は一度だけ恋人がいたがおままごとみたいな恋だった。
母が彼氏の話を嫌がるから、恋は悪者だと思っていたのに。
今も未練はある。私は大好きだろう、あの人も私を好きでいてくれたらいい。
あんないい女どこを探しても一生探しても見つからないと思っていてほしい。
そう思ってくれた方が互いに幸せな気がする。
だってあの人はもうとっくに死んでしまったのだから。
あの人に会った最期の日、病室で渡された手紙。
『俺の分まで生きて。君に愛してもらえた、それだけで世界で一番幸せ。そんなわけあるかあああ! 俺が雪音さんを幸せにしたいんじゃい。けど俺がいなくても幸せになってほしい。ただ生涯愛した男は俺だけにしてくれない? いつまでも悲しそうにしたら化けて出てやるから』
この手紙のせいで何度もあの人を、朝陽くんを思い出しまう。
あの人は女々しいことを言う人だった。いつも呑気に鼻歌を歌うくせに、弱音がとことん女々しい。私はそんなあの人が愛おしいのだ。あの人と私は互いに両親へ紹介できなくて、死に際にも葬式にも行けなかった。
死んでしまったことは定期的なお見舞いで知った。私だけがあの人のいない空っぽな世界であの人の笑顔を探していたのだ。
兄が甥を連れてきて、母や父は嬉しそうに歓迎する。
甥は活発的で家の中でボールを蹴る男の子だった。
「雪、遊んできて。私は夕飯の準備を支度するから」
母がそう言うと決まって甥はボールを持って私の目を見る。うるうるした目で見るものだから断れずに、甥を公園へ連れて行くのだ。
この日も嫌々甥を公園へ。
「ねえ、サッカーしよ」
「ええ」
甥は公園に着いてすぐにボールを蹴る。私は彼方へと転がっていくボールを取りに行く。甥はドヤ顔で笑う。このガキ!
「次はぼくのボール取ってね!」
甥は勝ったと思っている。兄の子供だか知らないけど、年上を怒らせた恐ろしさを教えるしかない。それも社会勉強だ。私は屈伸をする。準備運動は大事だ。
「ぷぷ、変身待ったら負けるもん! ぼくは最強だ」
ボールが飛ぶ。このガキ、準備中に蹴った。そして取れなかったら負けだと思っている。なんてやんちゃな。こんなやつの相手をさせようとする兄も母も苦手だ。妹に子守りさせようとする兄は何を考えているのだろう?
ボールを持ってきて。ようやく私の番だ。今までの恨みをその小さい体で受けてみよ。私が蹴ろうとした瞬間だった。
「待った」
「待たないでしょ」
「違うもん、それ」
「違う?」
「ううぅ」
甥は目に涙を溜める。いかにも叫びそうだった。こうなれば折れるしかない。
「どうしたの?」
「点入った方が先に蹴るもん、ぼくの番なのに」
このガキ、欠陥ルールばかり加えて。どちらにせよ全力で取って私の番にするだけ。私の恐ろしさに気づいてももう遅い。
「これもあり!」
次は甥がくるりと回って後ろに蹴る。その方向には鬼ごっこで遊ぶ子供たち。甥は全力で蹴っているから当てれば怪我をしてしまう。私は息を切らしながら走る。
間に合わない!
スライディングさせてボールを別の方向に飛ばす。ズボンが擦れてしまったしボールはさらに遠くへ行ってしまった。ただ誰にも当たっていないし良しとしよう。
「頑張ってー」
甥の叫び声が聞こえる。このガキ、どう料理してくれようか。
それからも甥は楽しそうにボールを蹴って私は回収し続けた。足がつりそう、もう限界である。甥はまだ遊ぼう、と私に誘ってくる。
母から電話だ。
『雪、マヨネーズ忘れてた。買ってきて』
「はいはい」
甥は心配そうに私を見る。安心しろ、今日はもう遊んでやるもんか。甥の食べ物のためではあるし諦めろ。
「サッカー?」
甥はしょんぼりと俯く。
「また遊んでね」
「はいはい」
また約束をしてしまったが醤油を買うことになってるし仕方ない。今度、嫌々遊ぶことになりそうだ。
それから買い物をした帰り道。
「わんわん」
甥が先ほど遊んだ公園を指差す。
時間が止まった気がした。モフモフな毛、私を見つめる眼光、フリフリする尾。それは間違いなく柴犬の類だった。
「段ボールに入る、犬?」
ということは捨て犬?
心配になって犬に近づく。甥は興味津々で犬を眺めていた。甥の目がキラキラしているように見える。犬は甥に気づいてより激しく尾を動かす。甥は前屈みになる。犬は舌を出す。甥はお尻をフリフリしながら近づく。犬はワオンと鳴く。甥はゆっくりと近づく。犬は座る。甥は犬の上に倒れて心地良さそうにモフモフを撫でる。
「その、触っても大丈夫なの、噛んだりしない?」
「雪音さんを噛むと思う?」
この声、イケボ? 大人っぽいというか青年らしい声。甥の声ではないだろうし。
「雪音さん、拾ってよ」
どこから声が、でもこれって朝陽くんの声?
優しい朝陽くんなら犬を拾うってことかな。空耳だ、でも仕方ないでしょ。ほら、犬がいる段ボールのマジックペンで太く大きく『朝陽ですよ、雪音さん拾って』と書いてあるから。
……、どういうこと?
「テレパシーが送れる犬に化けてあの世から遥々やって来た」
「ようするにお化け?」
「正解」
「どうして犬なの?」
沈黙。
犬は甥の頬をぺろりと舐めた。甥は嬉しそうに笑うと首回りをモフモフする。
「人間として死んだら幽霊でも生まれ変わるでも人間の姿を志望する。俺は前世の記憶を失わないために最も記憶力の高い人間にした。ここまでは大丈夫だけど、人に触れるためには殻が必要だった。ここで人間を選べば人間の姿でここに来ることができる。けど倍率が高くて次は早くても五十年は掛かるらしくて。今すぐ会いたくて犬にした」
「ふーん、テレパシーは?」
「なんで使えるかは分からないけど、幽霊だからかも。生まれ変わりの場合は、記憶は完全にリセット。幽霊の場合は記憶が保持できる。つまりは、久しぶりな彼が犬の姿に化けて出た、みたいな」
私はよく分かっていない。犬を抱く。モフモフして触り心地が良いし温かい。
「なんで私の前に現れたの?」
「悲しいそうにしたら化けて出ると伝えたつもりだけど? それに俺は雪音さんに振られていないし今も彼氏だと思ってるよ。犬系彼氏流行ってるでしょ?」
怪しいし良く分からないけど。そう言われたら私は何も言い返せない。
「本物の犬は彼氏にならないでしょ。けど信じるよ、朝陽くん」
やり取りが懐かしい。もう何年も前だ、朝陽くんが生きていたのは。
甥は不思議そうに私を見る。
「そうそう雪音さん以外にはテレパシー送れないからあの子不思議そうに俺たちを見てるね。って雪音さん、子供が! 嘘だあ、もう結婚してそこまで進んで」
今気づいたんだ。遊んでたじゃん、朝陽くん。
「私大学一年生だけど? 彼氏ずっといないけど」
犬は尾を振る。目が輝いて見える。そんなにも私に恋人がいないことが嬉しいのだろか?
「俺がいるじゃん」
「死んでたくせに、しかも戻ってきたと思ったら犬じゃん」
「うわああああああ、魂は本物の朝陽なのに!」
犬のくせに涙をぼろぼろ流す。これは確かに人間らしいかもしれない。
「改めて、久しぶり雪音さん。朝陽だよ!」
「久しぶり」
久しぶり、私の大好きな人。
こうして私は犬に化けた彼を拾うのだった。
「あ、まだ持って帰っていいのか聞いてない!」
母は男を家に連れてくるのは嫌がっていたしどうだろうか?
心配である。
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