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滴る天の下
いつもかけている眼鏡も掛けずに、じっと桜を観ている彼女には、どこか神秘的な空気がまとわりついていた。僕は長い付き合いの中で、彼女のこの雰囲気について、ある程度理解を深めていた。彼女は幼い頃から、何かに没頭するとこの不思議な空気を纏う。こうしている時の彼女は他人に話しかけられることを極端に嫌うため、僕はそのまま通り過ぎようと思った。けれど、そう出来なかったのは何故だろう。それは多分、彼女の頬を伝う雨粒や、雨に濡れ艶が増している黒いミディアムヘアや、彼女の服の上で跳ねる雨粒達の奏といった些細な何かが、どこか違っていたからだ。なにとどう違うのか説明は出来ない。それでも、その珍しく不完全な彼女の世界に、僕は踏み入る隙を見つけて入らずには居られなかった。そうして僕は思いがけずも、この状態の彼女に声を掛けるという、幼馴染として禁忌と言ってもいい行為に手を染めたのだ。
「ようアキ。傘もささずにどうした?」
「たまにはこういうのもいいでしょ」アキがへらっと笑う。
「いいでしょ、ってお前。風邪ひくぞ」
僕は心から心配したつもりでそう言った。
「ハルトだって、傘さしてないじゃない。こっち来たら?」
そう言うと彼女はどこか陰った瞳で誘う。僕は何の気なしにアキの提案に乗ってみることにした。
「こうしてさ、桜を見てると思うんだ。せっかく美しく咲いてるのに、力いっぱい花を咲かせてるのに、なんで邪魔されなきゃいけないんだろうって。まさに水を差されてさ、可哀想じゃない?」アキは真剣だった。アキは、自分の心に嘘をつかない。
「それがこの世界の普通だよ。傘、持ってるじゃん。使わないなら貸してよ」
そう言うと僕はアキの右手に握られた傘を半ばひったくるように受け取ると、すぐに雨を遮った。アキは気にする様子もなく、じっと雨空と桜を観ていた。僕も、そんなアキの横顔を吸い込まれるように見つめていた。我ながら、奇妙な絵面だ。じんわりと手が乾いていく。早まる拍動で熱い血が巡って、徐々に温かさが手に戻ってくる。雨が傘の上でステップを踏むのを聴きながら、そのままでいた。
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