三章 心を無くした少女
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三章 心を無くした少女

1  先生、好きなの。  先生、好きだったの。  それなのに先生。  ねぇ先生。  それなのに先生どうして先生、私じゃないの先生?  先生先生先生先生先生先生先こくはく生先生先生先生先生先生先生先生すきなの先生先生先生先生先生ばれんたいんにすきだって先生先生先生先生先生先生先生先生そつぎょうしたら先生先生先生先生先生先生先生先生先けっこん生先生う先そ生先生先生先生――  ああ……私、もう……疲れちゃった……―― (ぐちゃり) ◆◆◆  ――講義が終わり、教室から学生が出て行く。  教壇の上に、今回の講義に出席した事をしめすため、学籍番号と名前を書いた出席カードを提出して。 (これでよし。ふー……バイト行くかー……)  俺も、そのうちの一人だった。 「稲成くん、今日もバイト?」  背中を軽く叩かれて振り返れば、六月も終わり、暑さがいよいよ本番を迎えそうなこの時期でも、長袖のカーディガンを羽織った女子が立っていた。 「冬野さん」  日本人形みたいに真っ直ぐで、つやつやの黒髪ロング。清楚なお嬢様といった佇まいの彼女の名前は、冬野……――冬野みゆきさんという。  ある講義でグループ発表をしてから、会えばなにかと声をかけてくれるようになった彼女は、極度の寒がりだ――と言うのは、いつも長袖の彼女の様子から、俺が勝手に推測した情報だ。  この時期だからこそ、あえて冷房対策で羽織用に一枚用意しているという訳ではない。彼女は初対面だった四月から今日まで、欠かさず長袖でなにかしらを羽織っていたからだ。  今日の冬野さんも、暑がる素振りすら見せない。  俺が振り返ると、やっぱり涼しい顔で微笑んだ。 「たしか、カフェでバイトしてるんだよね?」 「そう……あれ? 俺、冬野さんにバイト先の事、話したっけ?」 「ううん。この間、斑目くんが言ってたの。稲成くんが、近頃バイトバイトで冷たい~って」  斑目というのは、俺の友人だ。  とにかく惚れっぽい男だが、振られるのも、とにかく早い。  そうすると、だいたい「傷心だから、なぐさめろ」と電話がかかってきて、愚痴られる。  この間、あまりに頻繁でしつこい愚痴だったから、バイトが忙しいと言って電話を切ったんだが……。 「……もしかして、冬野さんに電話行った?」 「メッセージが届いたの。ほら、グループ発表の時、連絡先知ってたほうがいいからって交換したじゃない? ……話し聞いてたら元気になったみたいでね、その後もよく連絡くるようになったの。稲成くんのバイトの事は、その時聞いたんだ」  ふふ、とはにかむように笑っている冬野さん。 (この流れ……まさか……)  清楚系美人である彼女の笑顔を見た俺は、惚れっぽい友人が、最近馬鹿みたいに浮かれている理由を察してしまった。 (班目……アイツ、今度は冬野さんに惚れたな……)  友人が、一体何度目になるかはわからない失恋から立ち直れたのなら、いい。 そして、冬野さんが斑目を迷惑がっていないのならば、尚の事だ。 (……ストーカーとか、正直笑えないからな……)  俺の頭の片隅に、クロエさんとのっぺらぼうさんの事がよぎる。  一方は純愛で、もう一方は嫌悪。  あの二人は、双方が抱いた感情が違い過ぎた。……もしも、のっぺらぼうさんの方がストーカー行為なんてせず、真正面から思いを伝えていれば何か違ったのか……。 「稲成くん? どうしたの、難しい顔をして」 「……え? あ、ごめん。何でもない」 「ほんとうに?」  冬野さんが、黒目がちな目で、じっと俺を見上げてくる。  彼女の方に深い意味はないとしても、こんな美人に見つめられると俺もどぎまぎしてしまうのだが……。 「……お店の人に、いじめられてたりしない?」 「え?」  いつも控えめに笑っている冬野さんの声が、信じられないくらい冷たく聞こえた気がした。  思わず聞き返すと、彼女は俺の目を見てニコリと笑って見せる。 (いまの……空耳だったのか? いや、でも……) 「あのさ、冬野さん。今、なんて……」 「あっ、いたいた、みゆきちゃん!」  聞き返そうとした途端、後ろからものすごい勢いで何かが突っ込んできて、俺を押しのけた。  俺の目の前に、にょきっと立ちふさがったのは、明るい茶髪を短く刈り上げた、がっしりとした体格の男。  たった今、話題に出たばかりの奴だった。 「…………斑目ぇ…………」 「あ? おぉ、稲成、いたのか! どうした、怖い顔して」  悪意なくカラッと笑う男を見て、俺は眉をつり上げ、冬野さんは困った様に眉を下げておろおろとした。 「俺の足踏んでんだよ、お前!」 「あいたっ! 脛を蹴るなよ稲成ぃ、ここはなぁ、鍛えられないんだぞ!」 「知るか」 「なんで怒ってんだ? ……ハッ!」  斑目は、突然でかい体を丸めて、俺にひそひそと話しかけてきた。 「お、お前、みゆきちゃんと話しているのを邪魔したから、怒ってるのか?」 「おい、いまさら声のボリュームを落としたって遅いんだよ」  本人、目の前にいるだろう。  しかも、ものすごい困り顔で。 「いいから答えろ! どうなんだ……! みゆきちゃん狙いなのか……!?」 「……おい、冬野さんが、もの凄く居心地悪そうなんだが」  完全に聞こえているだろ、これ。  つーか、斑目の声がでかすぎて、ひそひそ話す意味がない。 「ごめんな、冬野さん。変な話きかせて」 「あ、ううん、そんな事」 「じゃあ、俺はバイト行くから。……ほら、斑目、お前は冬野さんに用があったんだろ」  冬野さんに聞かれている事に今更気づき、でかい図体を丸めてもじもじしている斑目の肩を叩くと、奴は目を輝かせた。 「稲成……! みゆきちゃん狙いじゃないのか……!?」 「……だから、本人の前でそういう露骨な話題を出すなっつーの……。ほんと、ごめんな冬野さん。コイツの言う事は、あんまり気にしないで」 「……なんだ、残念。……答えてはくれないんだ?」  手を振って背を向けた俺に、少しだけ拗ねたような声が聞こえた。  振り返ったが、大仰な身振り手振りで冬野さんに話しかけている斑目のでかい図体が見えただけで、小柄な彼女の姿は完全に隠れていた。 (…………今の、どっちに対してだ?)  斑目が来る前に彼女が発していた言葉にか、それとも……俺が斑目の無神経な質問に答えなかった事か。  まぁ、後者はないだろう。  それじゃあ、まるで……。 (彼女が、俺に気があるみたいじゃないか)  一瞬だけ頭をよぎった自惚れ。 (まさか。無いな)  けれど、すぐさま有り得ない事だと否定する。  身の程を弁えている俺は、さっさと教室を出てる事にした。  ――間際、ひやりとした空気が頬を撫でて、誰かの「なんか、エアコン効き過ぎじゃない?」という声が聞こえた。  声は女子のものだった。  男の俺ですら一瞬寒かったくらいだから、もしかしたら女子にはキツイかも知れない。こうなると、やっぱり冬野さんの長袖ってのは、理に適ってるんだろう。  そんな事を考えながら、俺は教室棟を後にしたのだった。