二章 顔を奪われた男
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二章 顔を奪われた男

1 六月も上旬が過ぎると、たちまち暑くなった。 なんだか、あっと言う間に梅雨明けしてしまい、毎日からからと乾いているような気がするのは、俺が北の田舎町から出てきた人間だからだろう。 常に、どこか肌寒い土地の出身者からしてみると、都会はちょっと暑すぎて過ごしにくい。 今ですらこんな状態なんだから、本当の夏が到来すれば、どうなるのか……考えたくも無い。 (こういう日は、アイスコーヒーとか飲みたくなるよなぁ……) 現実逃避に、氷が浮かんだ涼しげなアイスコーヒーを想像して、思わず喉が鳴った――だが、今はバイト中。そして、茶房を名乗るここには、コーヒーの類いが一切無い。 『茶房 春夏冬』――古い家を改築して作ったというこの店は、オーナーの意向でコーヒーの類いは一切置かないというこだわりがあるのだ。 前に、なぜなんだと理由を聞いたら、店長は苦笑を浮かべて教えてくれた。 曰く、店のオーナーは「コーヒーなどという物を置けば、茶葉の良い香りが台無しにされるだろう!」という反コーヒー党らしい。 情報が、全部伝聞ばかりなのは、俺が一度もオーナーに会った事がないからだ。 (どんな人なんだろう?) 好奇心のままに、まだ見ぬオーナーを想像する。 きっと金と時間が有り余っている人に違いない。 もしかすると、税金対策とか道楽で開いた店かも知れない。 あるいは……。 (暇を持て余したじいさん……とか?) そんな事を考えながら、窓拭きをしていたのが悪かったんだろう。 「おはよう、狐」 「うぎゃあっ!!」 急に背後から声をかけられ、俺はのっていた踏み台から転げ落ちた。 「いてて……」 尻餅をついて呻く。 俺を、狐なんて呼ぶ奴は、一人しかいない。 この店……《春夏冬》の常連客、安倍保明だ。 無様にすっころんだ俺を、小馬鹿にした顔で見下ろしているのだろうと思ったが――見上げた奴は、びっくりしたように、色素の薄い目をいつもより大きく開いていた。 「大丈夫かい?」 嫌味は降ってこず、心配するような声と共に手を差し出される。 「……どうも」 「いきなり転げ落ちるから、どうしたのかと思ったよ。……まさか、立ったまま寝ていたのかね」 ぐっと引っ張り上げられ、勢いで立ち上がる。 すんなりと立ち上がった俺を見て、どこも怪我が無いと分かったのだろう。 途端に安倍は鼻を鳴らし、いつもの嫌味を言い始めた。 「アンタがいきなり声をかけるから、驚いただけです。……一体、どっから入ってきたんですか!」 「狐……君は、もしかして馬鹿なのかい? ごくごく普通に、店の入り口から入ったに決まっているだろう」 「嘘つけよ、鈴の音がしなかったぞ……!」 引き戸を開ければ、澄んだ音が鳴るはずだ。 今の時期は、営業時間中は戸を開けっぱなしだから鈴の音を聞く機会は無いが、営業時間外は戸を閉めている。 開閉があれば、当然鈴の音がするはずなのに。 「鈴? ……あぁ、アレは特別仕様だからね」 にたり。 意味深に笑った安倍は、訝しむ俺を無視し、いつもの指定席に腰掛けた。 あまりにも堂々とした行動に流されそうになるが、今は開店前だ。 ここで、いつもの押し問答が始まる。 「……安倍さん、アンタ、なにさらっと席に着いているんですか。あのですね、いつも言ってますけど、……まだ、開店前ですから」 「なぁに、気にすることは無いさ」 それは、間違っても押しかけてきた客側が言っていいセリフではない。 わざと、人の神経を逆撫でして楽しんでいるのかと思うほど、コイツの行動は勝手気ままだ。 「アンタは気にしなくても、こっちは気になるんだよ! 何時も言ってるだろ! いい加減、わかれ!」 「おやおや、狐は毎度毎度、ちまちま細々と……本当に些末な事を気にするんだな。疲れないかね?」 「俺の体調を心配する気が、一欠片でもあるなら、今すぐその態度を改めて下さい……! アンタが疲労の主な原因なんだから……!」 心外だと、安倍は明るく笑った。 俺の頭の中を「暖簾に腕押し」やら「糠に釘」と言った言葉が駆け巡る。 今日も駄目だったと、俺は脱力する。 「……アンタを見てると、いつも不思議に思うんですけど……店長からは、何も言われないんですか?」 「ん? 当たり前だろう」 当たり前じゃ無い。 あと、威張って言う事でも無い。 「僕には言っても無駄だと、諦めているからな!」 「それ、一番駄目なパターンだろ……!」 店長ですら制御不能の、モンスター常連。 もしかして俺は、やり合うのが面倒になった店長にかわって、コイツと毎度無意味な攻防をするためだけに雇われたのだろうか……!? 「百面相をしているところすまないが、狐。そろそろ、窓拭きを終わらせないといけない時間ではないのかね?」 「……あっ!」 「やれやれ、この駄目店員にも困ったものだ」 「誰のせいだよ!」 これ見よがしに肩をすくめる男に言い返し、俺は窓拭きを再開させた。 ちくしょう、今日も駄目だった。結局、開店時間前に押し入られ、居座られた。 毎度このパターンだ。 「狐」 「俺、今忙しいので」 負けた悔しさで、窓を拭く手にも力がこもる。 けれど、勝者である安倍は敗者の気持ちなんて一切省みず、話を続けた。 「構わないから、そのまま聞け。……仕事は朝のうちに終わらせておくように」 「…………は?」 「なんだね、その嫌そうな顔は。もっと嬉しそうな顔をしたまえ。――今日は、探し物日和なんだからね」 たらりと、背中を嫌な汗が伝った。 この男の、うさんくさい仕事を手伝ってから二週間、あれから妙な事もなく、あの時のことはストレスが見せた幻覚だったんではないかとすら考えていたのに……! 今になって、安倍はいい笑顔でめちゃくちゃ嫌な事を突きつけてきた。 「……あの、安倍さん。これも言ってるはずですけど……、俺はオカルトとかそういう類いは信じてないし、アンタの話は、正直この人どっかヤバいんじゃないかとしか思ってないんで、そういう事を好む相手を頼った方がいいですよ」 「狐、君は春夏冬の従業員だろう。僕の手伝いも、立派な仕事だ」 安倍は、したり顔で表の看板にも書いてあるだろうと言うと、腕を組む。 「それに、君は絶対に手伝うさ」 一体どこからそんな自信がわいてくるのかと、俺が半分以上呆れていると、にわかに外が騒がしい。 『ほん――に、ここに入るんですか!?』 『あ――りまえじゃ! さがしものっちゅーたら……――に、きまっとる!』 『でも……! ここって、例のおんみょ――が……!』 (なんだ?) 身構えた俺と違い、安倍はますます笑みを濃くして呟いた。 「……来たな」 奴の確信を持った一声と共に、まだ開店前だというのに店の引き戸が勢いよく開かれた。 「にいちゃん、おるかー!!」 ちりん。 鈴が、軽やかな音を響かせた。
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