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番外編 卒業(3)
三枝はエプロンサイドに上がり、奥井とグローブを合わせてコーナーへ戻る利伸を出迎えた。
「お疲れ。今のラウンドはかなり良かったぞ、勇気を持って踏み込んだな」
「あ、はい」
いつも通りに頷く利伸の後ろに回り、ヘッドギアの紐を解く。その拍子に、利伸の首筋を流れる大量の汗を目の当たりにした。やはり、出入りの速さとパンチの強引さで勝負する奥井を相手にすると、様々な事に神経を使わなければならないので疲労も相当のものだろう。見た所、拳を痛めてもいない様なので、三枝は安堵してヘッドギアを外し、利伸に水のペットボトルを手渡した。そこへ、越中にヘッドギアを外してもらった奥井が駆け寄って来た。
「いや〜利伸君ありがとう〜!」
「あ、はい。ありがとうございました」
利伸が返事すると、奥井が興奮気味に三枝と利伸を交互に見ながらまくし立てた。
「しっかし凄いッスねぇ〜利伸君は! だって〜、一ラウンド目は申し訳ないけど僕が取りましたよ、けどさぁ、二ラウンド目になったら急に僕の目線に合わせてワンツー打って来て〜、僕もぉあれで面食らっちゃって〜、すっかりリズムが乱れちゃいましたよぉ〜」
「おい、落ち着けよ奥井! それにあんまり褒めると調子に乗るかも知れんだろ」
三枝が苦笑しつつ宥めるが、奥井の勢いは止まらない。
「いやぁ〜、そんな事無いッスよぉ、利伸君は結構頭良いし冷静だから、そんな天狗になんかなりませんよぉ〜、ねぇ利伸君」
急に水を向けられて戸惑う利伸に代わって、三枝が返す。
「お前、困ってるだろ利伸が。もういいから腹筋して上がれ!」
半ば邪険に扱われたにも関わらず、奥井は満面の笑みで頷き、利伸を労ってリングを降りた。それに続いて、利伸も三枝に会釈してロープをくぐった。三枝はキャンバスにモップをかけている越中に礼を言うと、利伸に二ラウンズのサンドバッグ打ちを指示してからリングを降りて事務室に入った。中で煙草を吸っていた大森から、茶の入った湯呑みを差し出された。
「ああ、どうも」
頭を下げて受け取る三枝に、大森が言った。
「なかなか見応えあるスパーだったなぁオイ」
「ええ、まさか利伸があそこまでやるとは思いませんでしたよ」
三枝がリングの方を振り返って答えた。その向こうでは、グローブを着け替えた利伸がサンドバッグに鋭いパンチを打ち込んでいた。そこへ、出入口から挨拶の声が聞こえた。
「チワッス〜」
声の主は井端だった。三枝は茶を飲み干して事務室を出ると、井端に声をかけた。
「よぉ井端、早いな」
「あ、オッス、今日早上がりになったんで」
すると、事務室から大森が顔を出して口を挟んだ。
「おいバター、ひと足、いやふた足くらい遅かったな」
「え? 何がッスか?」
不思議顔で訊き返す井端に、三枝が説明した。
「ついさっきまで、利伸と奥井がスパーしてたんだよ」
途端に、井端が狼狽してジム内を見回した。
「ええ!? あ、利伸! って、あ、奥井さん! ええ〜! マジッスか!? うわ〜見たかったなぁ〜」
「残念だったなバター。ま、仕方ねぇな」
意地悪そうに笑う大森を横目に、三枝が言った。
「利伸は今日で期末が終わったそうでな、それで早いんだ。スパーやろうって言ったのは奥井の方だからな」
「へぇ〜、あの、どんなだったんですか? 聞かしてくださいよ」
低姿勢で頼む井端に、三枝が微笑しながら告げた。
「後で話してやるから、着替えて来い」
「オッス」
返事した井端が更衣室へ消えると、入れ替わりに腹筋を済ませた奥井が寄って来た。
「ありがとうございましたぁ先生〜! 久しぶりにスパーもやれましたし、それも利伸君とやれて〜、本当良かったッスわ〜」
三枝は二、三度頷くと、更衣室を顎でしゃくってから告げた。
「今あっち行くと、井端に質問責めに遭うかも知れんぞ」
「あ〜、気をつけますぅ〜、じゃ〜失礼しますぅ〜」
頻りに頭を下げながら更衣室へ向かう奥井を見送ると、三枝はサンドバッグを打つ利伸に歩み寄って発破をかけた。
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