基本編 右フック(1)

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基本編 右フック(1)

 全国的に冬らしくなった頃、三枝と友永、それにふたりの四回戦選手が沖縄で十日に渡って張った合宿を終えて『大森ボクシングジム』に戻って来た。夕方のジム内には、既に多くの練習生が集まっていた。男子更衣室の近くには、着替えを終えてバンテージを巻く利伸も居る。 「ただいま戻りました」  代表して友永が挨拶すると、それまで鏡に向かってシャドーボクシングをしていた井端が反応した。 「あ! 祐次さん! お帰りなさいッス!」  直後に事務室から大森が出て来て、一行を迎えた。 「おぉー皆お疲れ。どうだった?」 「会長、ただいま戻りました。いや~東京寒いですね~、沖縄とはえらい違いですよ」  土産を満載した紙袋を両手に提げた三枝が答えて、袋を大森に差し出した。 「これ、泡盛です。それとこっちはサーターアンダギーとちんすこうです」 「おぉ、悪いね」  微笑して受け取った大森が事務室に引っ込むと、バンテージを巻き終えた利伸が寄って来た。 「お疲れ様でした」 「おぅ利伸、どうだ調子は?」  三枝が訊くと、利伸は軽く頷いて答えた。 「あ、はい、左フックも馴染んで来ました」  そこへ、友永が日焼けした顔を突き出した。 「よぉ利伸、元気か?」 「あ、はい」  友永の問いに頷くと、利伸は三枝に訊いた。 「あの、今度は右フックを教えて貰えませんか?」 「え? あ、ああ、いいけど、どうして急に?」  困惑気味に三枝が訊き返すと、横から友永が口を挟んだ。 「お、次は誰の試合に影響されたんだ?」  利伸はふたりを交互に見ながら答えた。 「いや、誰とかはなくて、何かこう、左だけだとバランスが悪い気がして」 「ふぅーん」  興味なさそうに唸る友永をよそに、三枝が言う。 「確かに、できないよりかできた方がいいよな、判った。おいエッチュー!」  三枝の呼びかけに応えて、練習生のサンドバッグ打ちを見ていた越中が小走りに寄って来た。 「何スか?」 「あのな、今日から利伸に右フック教えてやってくれよ。その前に左フック確認してな」 「判りました。じゃあ利伸、アップと縄跳び終わったら来てくれ」  三枝の指示を受けた越中が、すぐに利伸に告げて再びサンドバッグの方へ戻った。利伸は小さく頷き、三枝達に会釈してその場を離れてウォーミングアップを始めた。 「あいつ、結構意欲的ッスよね」  友永が利伸を見ながら言うと、三枝も同意して応えた。 「ああ、最初は何となく掴み所の無い感じがしたけど、最近は本当に積極的に練習してるよ」  以前に聞いた、高校の進路担当教師から受けた心ない言葉が少なからず影響しているのではないか、と三枝は思った。表情や態度には出さないものの、実際は負けず嫌いなのであろう。 「よし、土産も届けた事だし、今日の所は帰ってゆっくり休め」  友永達を労うと、三枝は事務室に入った。中では大森が早速土産のサーターアンダギーの包みを開けていた。 「お、どうした? 帰らないのか?」  大森の問いを笑顔ではぐらかすと、三枝は椅子を引きつけて腰を下ろした。 「いや、飛行機での往復なんて久々だったもんで、何かここ来たら安心して力抜けちゃいました」 「ハハッ、そうか。なら、ホレ」  大森も笑顔になって、包装紙を取った箱の中からサーターアンダギーをひとつ出して三枝に差し出した。 「あぁすみません」  恐縮して受け取ると、三枝は傍らの急須の中身を確認して茶の用意を始めた。  暫く無言でサーターアンダギーを齧っていた大森が、三枝の淹れた茶をひと口飲んでから訊いた。 「で、どうだったユージは?」 「はい、あっちで来て貰ったスパーリングパートナーが一階級上の選手だったんですけど 、圧倒してましたよ。尤もあいつは、『あれホントにミドル級? 全然パワー無いッスよ』なんて言ってましたがね」 「へへっ、その調子なら問題無さそうだな」  大森は満足げに頷いて、サーターアンダギーを頬張ってジム内に目を移した。その視線の先に、縄跳びをする利伸が居た。 「しかし、ヒョロはすっかり縄跳びが上手くなったな」 「あ、そうですね。入ったばっかりの時は酷いもんでしたからね」  三枝も懐かしむ様に言って利伸を見た。ふと目を横に動かすと、まだ友永が残っているのが見えた。 「おい祐次、まだ帰ってなかったのか?」  三枝が事務室から出て訊くと、友永が横目で見返して答えた。 「あ、俺もね、何か利伸の縄跳び見てて感心しちゃって」 「お前がアドバイスしたからだろ」 「まぁ一応」  三枝と友永は微笑しつつ、一心不乱に縄跳びをする利伸を見つめた。
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