基本編 右フック(2)

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基本編 右フック(2)

 結局、三枝は終了時間までジムに留まり、遠くから利伸の練習を見守った。  左手を前に出すオーソドックス・スタイルの場合、左フックは比較的打ち易くてコツを掴むのも早いが、後ろに引いた右手で放つ右フックはフォームが崩れ易く、従って習得も容易ではない。利伸とて例外ではなく、越中の指導を受けて何度も右手を振っていたが、どうしても身体のバランスが悪くなったり、脇が甘くなってしまう。  三ラウンズこなした所で、今日の指導は終わった。利伸は越中に頭を下げると奥に移動して、柱の高い位置に固定したパンチングボールの前に立った。 「おっ」  利伸が意外な動きを見せた事に驚く三枝に、横から大森がちんすこうを齧りながら言った。 「ああヒョロな、この間パンチングボールやらせてみたんだけどな、まぁ見てな」 「え? はい……」  期待と不安がない交ぜになった表情で、三枝は利伸に改めて注目した。  ラウンド開始のベルが鳴った直後に、利伸が両拳を挙げてパンチングボールを叩き始めた。その動きは、かなりスムーズだった。 「おぉ」  三枝が小さく感嘆の声を上げると、大森が反応した。 「どうだ? 上手いもんだろ。右フックと違ってちょっと教えたらすぐ叩ける様になった」 「へぇ、やっぱりあいつの動体視力は本物って事ですかね」  笑顔で返した三枝は、デスクの上の湯呑みを取り上げて茶を啜り、ちんすこうをつまんだ。  翌日、夕方にジムを訪れた利伸に、三枝が告げた。 「よぉ利伸、今日は俺がバッチリ右フック教えるからな」 「あ、はい」  利伸は軽く頭を下げて、更衣室へ向かった。その後ろ姿を見送ってから、三枝はリング上でシャドーボクシングをする練習生に声をかけた。  ウォーミングアップと縄跳びを終えた利伸を、鏡の前に立つ三枝が手招きした。小走りに寄って来た利伸に、三枝が鏡を差して指示した。 「よし、じゃあ早速右フック、やってみな」 「あ、はい」  請け合った利伸がファイティングポーズを取り、肩で軽くリズムを取ってから右腕を急角度に振った。二、三度繰り返した所で三枝が言った。 「うーん、ちょっと慌て過ぎだな。手打ちになってるぞ」 「はぁ」  曖昧に頷く利伸に、三枝は自らファイティングポーズを取って説明を始めた。 「手ばっかり意識するとどうしてもこう、肩が出ちゃうんだよな、それで腰が回らないから手打ちになる」  悪い見本を見せた三枝が、構え直して再び右フックを打った。今度は腰が入って上半身が充分に回り、右腕も直角に曲がってコンパクトに振られている。 「まずは下半身から力を伝達させて、キチンと腰を回してから腕を振る。判ったか?」 「あ、はい」  頷いた利伸を促して、三枝は鏡の方を向いた。ファイティングポーズを取った利伸が、鏡に向かって右フックを打った。すかさず 三枝のアドバイスが飛ぶ。 「腕を開き過ぎるな」 「はい」 「腕を振り過ぎ」 「はい」 「肘は直角」 「はい」  一回毎に修正を加えながら、ふたりは二ラウンズに渡って右フックを練習した。終了のベルと同時に、三枝が告げた。 「よし、今日はこのくらいにしとくか」 「あ、はい。ありがとうございました」  利伸が軽く頭を下げて、エプロンに置いたタオルを取って顔の汗を拭った。三枝も首に掛けたタオルを使いながら、利伸に尋ねた。 「なぁ、パンチングボールやってみてどうだ?」 「え? あ、最初越中さんの手本を見た時は難しそうだったんですけど、やってみたらそれ程難しくなかったです」  事も無げに言う利伸に瞠目しつつ、三枝はパンチングボールを指差して言った。 「そうか、じゃあ今日もやってけ」 「あ、はい」  頷いて、利伸はタオルを片手にパンチングボールへ向かった。
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