基本編 右フック(3)

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基本編 右フック(3)

 利伸のパンチングボールが二ラウンド目に入った所に、友永が姿を現した。 「オィーッス」 「よぉ祐次、休めたか?」  三枝が歩み寄って訊くと、友永は苦笑して答えた。 「まあまあッスね」 「そうか、でもこっから試合まで追い込まないとならんからな、休める時はキッチリ休めよ」  三枝の言葉に頷きかけた友永が、ジムの奥を見て目を丸くした。 「あ、え? あれ利伸?」  友永の視線を追った三枝が、笑顔で言った。 「あぁ、どうも俺達の知らん内に会長とエッチューが仕込んだらしい」 「へぇ、にしたってよくできてるじゃん」 「あいつは動体視力が異常に良いからな。ああいうのは得意なんだろ」 「ほぉ~」  感心した様に頷きながら、友永は三枝に会釈し、事務室の大森にも頭を下げて更衣室へ向かった。  三ラウンズのパンチングボールを終えた利伸が、腹筋台に取りついた頃に、着替えを終えた友永がひと組のバンテージを片手に出て来た。いつもなら更衣室近くの床に座り込んでバンテージを巻き始めるのだが、今日はそのまま腹筋台へ足を向けて、利伸に話しかけた。 「オッス」 「あ、どうも」  腹筋台に座った状態で挨拶する利伸に、友永が笑顔で言った。 「お前、パンチングボール上手いじゃんか」 「あ、はい。ありがとうございます」 「オレはアレ苦手でさ、できる様になるまで半年くらいかかったんだよ。大したもんだな」  先輩に褒めちぎられて対応に困る利伸の肩を軽く叩いて、友永は腹筋台を離れていつものポジションに戻った。腹筋台でキョトンとする利伸を見て、三枝は必死に笑いを噛み殺した。  三枝が他の練習生の指導をしていると、腹筋を終えた利伸が、首に掛けたタオルで顔の汗を拭いながら話しかけて来た。 「あ、あの」 「ん? 何だ利伸」 「あ、今日、友永さんのスパーリング見て行ってもいいですか?」 「あぁ、いいよ。取り敢えず着替えて来い」 「あ、はい」  三枝が申し出を快諾すると、利伸が少しだけ表情を緩めた気がした。更衣室へ向かう利伸を見送りながら、三枝は感慨深げな顔をした。  いつも利伸はあまり表情に変化が無く、何処か抜けた様な顔に見えるので、正直三枝も掴み所が無かったのだが、ここの所は何となく利伸の表情に微妙な変化が見られる様になっていた。少なくとも、三枝はそう感じていた。それに伴ってボクシングへの意欲も上がっている、そう思えて仕方なかった。  やがて友永の準備も済み、遅れてジムに着いた井端も急ピッチでウォーミングアップし、共に二ラウンズのミット打ちをこなしてからいよいよスパーリングの準備に入った。越中の手を借りてグローブとヘッドギアを着ける井端に、三枝が歩み寄って言った。 「井端、ちょっと出入りを増やしてくれ」 「え? あ、オッス」  最初は戸惑った井端だったが、三枝の意図を感じたのか、異論は挟まずに頷いた。三枝は「頼むぞ」と言い残して友永の元へ行った。 「祐次、平田の試合は覚えてるな?」  三枝の問いに、ヘッドギアを着けた友永が応える。 「覚えてるも何も、ネットで動画拾って観てるよ」 「何だお前、利伸みたいな事してるな」  三枝がからかう様に言うと、友永は笑顔で返した。 「何言ってんの。今はネットで探しゃある程度は見つかるもんだよ」 「へっ、時代遅れで悪かったな」  三枝のボヤきを微笑で受け流した友永が、グローブを嵌め終えた両拳を打ち合わせた。 「よぉし、行こぉか!」  友永の号令に呼応して、井端も気合いを入れ直してエプロンに上がった。友永も後からリングへ上がるが、途中で制服姿の利伸に声をかけた。 「よく見てけよ」 「あ、はい」  利伸の返事に笑顔で頷き、友永はロープをくぐった。
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