入門編 ヒョロ(2)

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入門編 ヒョロ(2)

   一週間後、夜二十時過ぎの『大森ボクシングジム』の中は、思い思いに身体を動かす人々で溢れかえっていた。学生や、仕事帰りの社会人、そして、プロボクサー。  三枝は、リングサイドで腕組みをしながらリング上でマススパーリングを行うふたりのプロボクサーの様子を見つめていた。その視界の隅で、事務室から大森が出て来るのを捉えた。 「よぉヒョロ、入れ入れ」  大森の呼びかけを聞いた三枝が出入口に顔を向けると、大きなスポーツバッグを肩から提げた利伸が、やや当惑した表情で立っていた。  ラウンド終了のベルが鳴ったのをきっかけにして三枝はリングサイドから離れ、利伸に歩み寄った。 「よぉ、利伸。よく来たな」 「あ、こんばんは」  利伸は軽く会釈して、靴を脱いで中に入った。 「どうだ、昼間とは全然雰囲気違うだろ?」 「はい……何か、活気が凄いッスね」 三枝の問いに、利伸は頻りに目を四方へ泳がせつつ答えた。そこへ、大森が口を挟んだ。 「ヒョロ、書類は用意できたか?」 「あ、はい」  頷いた利伸を、三枝は事務室へ促した。利伸は背中を丸めて、大森の後に続いて事務室に入った。その後に三枝も入室する。  利伸はスポーツバッグを足元に下ろし、中から大きめの封筒を取り出して、椅子に腰を下ろした大森に差し出した。中身は入会申込書兼誓約書と健康診断書、保護者の承諾書だった。ダイエットや体力作りが目的ならともかく、未成年でプロボクサー志望なので、両親の許可は欠かせない。  大森はひと通り確認して、「OK」と呟いた。それを聞いた利伸が、またスポーツバッグに手を突っ込み、今度は小さい封筒を出して大森に渡した。中身は入会金と二ヶ月分の月謝である。受け取った大森が丁寧に枚数を数え、無言で頷いてデスクの引き出しに入れた。 「済まんな、ウチは口座引き落としやってなくてな」  三枝が苦笑しつつ言うと、大森が補足した。 「オレが前に居たジムは引き落としだったんだけどさ、不払いが多くて困ったんだよ。だから、ここじゃ直接現金を払わせてんだよ」 「そういう会長だって、現役の頃は大分月謝溜めてたらしいじゃないスか」 「うるせぇ」  三枝のツッコミに悪態で応えた大森が、デスクの隅から一枚のカードをつまみ上げてデスクに置き、引き出しから小さなゴム印を出してカードの裏に二回スタンプしてから利伸に差し出した。 「ほれ、ヒョロ。これ会員証な。月謝払ったらスタンプ押すから、忘れんなよ」 「あ、はい」  返事して受け取った利伸に、三枝が告げた。 「よし、じゃあそこで着替えて。終わったら柔軟してな」 「はい」  頷いた利伸が、事務室の隣に空いた袋小路に入った。そこには扉も付いていない簡易なロッカーが置かれていて、男子更衣室として使われている。女子更衣室は斜向かいに在り、キチンとした部屋になっている。  三枝がリングサイドに戻り、マススパーリングをしているふたりに声をかけていると、着替えを済ませた利伸が出て来た。その体躯を見て、三枝が「ほぅ」と声を漏らした。  元バスケットボール部らしく、肩の部分が広めのタンクトップと大きめの短パンに身を包んだ身体は、その長身以上にリーチの長さが目を引いた。ほぼ走りっ放しの競技だったからか、脚部の筋肉はしっかりしている様に見える。どうやらただの「ヒョロ」ではなさそうだ。  利伸は使い古したバスケットシューズの紐を硬く結んでから、シャドーボクシングや縄跳びをしている練習生達の合間を縫ってスペースを確保し、窮屈そうに長身を折り曲げて柔軟体操を始めた。三枝は、窓際に吊ってあるサンドバッグに一心不乱にパンチを振るっている大学生の後ろで、厳しい表情で発破をかけている非常勤トレーナーの越中春樹に近寄り、声をかけた。 「おいエッチュー、ちょっとあいつ見てやってくれないか? プロ志望の高校生なんだ」  ニックネームの『エッチュー』は、勿論大森の命名である。越中は三枝の指差す方向を見てから頷いた。 「あ、いいですよ。縄跳びさせりゃいいですか?」 「ああ」  相槌を打って、三枝はリングサイドに戻った。リング上のマススパーリングは、一層熱を帯びていた。防具を着けずに、相手にパンチを当てない前提で行うのがマススパーリングだが、リング上のふたりは今にも本気でパンチを当てそうな殺気である。  ラウンド終了のベルが鳴り、リング上のふたりが動きを止めると同時に、三枝はエプロンサイドに飛び乗った。 「おいお前等、熱入れ過ぎじゃないか?」  マススパーリングを終えたふたりの内のひとり、このジムで最も経験と実績を積んでいるプロボクサーで、現在日本スーパーウェルター級四位の友永祐次が三枝に歩み寄って言い返した。 「何言ってんの、マスだからって油断するなって、ノボさんがいつも言うんでしょ?」  『ノボさん』は友永が付けたニックネームだ。大森は何故か、三枝だけは普通に苗字で呼ぶ。 「そうだな、まぁともかく、まだ試合も決まってない内から怪我だけはしてくれるなよ」  三枝の言葉に「へいへい」と答えつつ、友永は右手のグローブだけ外し、トップロープに掛けたタオルを取って顔の汗を拭った。その脇で、友永の相手を務めた岩橋というプロボクサーが、友永と三枝に挨拶してリングを下りた。  一分間のインターバルが終わり、ラウンド開始のベルが鳴った。若干緩んでいたジム内の空気が、やや引き締まった。だが暫くすると、ジムの一角に練習生達の視線が集中した。つられて三枝が顔を向けると、利伸がえらく不格好に縄跳びをしていた。猫背が更に丸まり、両腕は大袈裟に動いている。両脚を揃えて跳んでいるが、妙にバタバタしている。側で見ている越中も、笑いを噛み殺していた。 「何だ? 酷いなありゃ」  友永の指摘に、三枝は苦笑せざるを得なかった。人間誰しも苦手なものはあるが、それでも利伸の無様な姿は見るに耐えなかった。  ラウンド終了のベルが鳴った所で、三枝はたまらず利伸に駆け寄った。 「利伸、お前縄跳び苦手なのか?」  たった一ラウンド跳んだだけにしてはえらく多い量の汗を滴らせながら、利伸は頷いた。顔が赤いのは、縄跳びによる体温上昇だけが理由ではないだろう。 「はい、昔からどうも上手く跳べなくて」 「そうか、でもなぁ、縄跳びってのはボクサーの練習じゃ基本だからなぁ」  三枝が腕組みをしてぼやくと、後ろから友永が口を出した。 「オマエさ、腕を回し過ぎだよ。それと、足は交互に上げるんだよ」 「えっ?」  戸惑い気味に見返す利伸の手からロープをひったくると、友永は自ら手本を示した。両手は身体の真横、腰骨の辺りに固定し、足は交互に上げて前後に振っていた。その姿勢の良さに、利伸は感心した様に頷く。  ある程度跳んだ友永が動きを止め、ロープを利伸に返した。 「ほれ、やってみな。後はエッチューさんに教えてもらいな」 「あ、ありがとうございます」  利伸の礼に微笑で応え、友永はその場を離れた。三枝が追いすがり、小声で訊いた。 「珍しいな、入りたての練習生にアドバイスなんて」  友永は足を止めて、照れ臭そうに俯いて答えた。 「いや実は、オレもガキの頃は縄跳び下手でさ、ボクサーになるって決めてから猛練習したんでね。何か他人事に思えなくて」 「ほぉ」  三枝は、心の中で安堵していた。  今まで、プロ志望の練習生の何人かが、練習態度や心構え等で友永の不興を買い、結果としてジムを去ってしまった事があった。その為、三枝はプロ志望の練習生が入る度に友永と上手く行くかどうか気を揉んでいたが、利伸に関してはその心配は無さそうだった。  視線を戻すと、利伸が越中の指導を受けながら縄跳びに悪戦苦闘していた。  二ラウンドの縄跳びを終えた利伸は、全身に大汗をかいていた。その疲弊し切った姿を見た三枝は少し心配になったが、取り敢えずは越中に任せる事にして、自らは友永のサンドバッグ打ちの指導を始めた。合間に目を転じると、利伸は基本の構え方と前後左右のステップを学んでいた。さすがに、縄跳びの様な醜態を晒してはいないらしい。  プロの指導を終えてひと息吐いた三枝が、事務室へ向かって歩いている所へ、身体から湯気を立ち上らせた利伸が寄って来た。 「あ、ありがとうございました」 「おぉ利伸、どうだった?」  三枝が笑顔で訊くと、利伸も少し相好を崩して答えた。 「あ、はい、ちょっと難しかったスけど、面白かったです」 「そうか。じゃ、またな」 「はい、お疲れ様ッス」  軽く会釈して、利伸は踵を返して男子更衣室へ行った。  三枝が事務室に入ると、大森が椅子を回して向き直り、煙草に火を点けながら問いかけた。 「どうだヒョロは? 縄跳びは酷ぇもんだったがな」 「そうですね、でもあの感じなら、続くんじゃないですか? 珍しく友永がアドバイスしてましたし」 「ユージが? ほぉ」  大森は、勢い良く主流煙を吐き出しながら目を丸くした。頷いた三枝が振り返ると、丁度シャワールームへ向かう利伸の後ろ姿が目に入った。相変わらず猫背気味の体躯に、三枝は妙な期待を覚えた。  
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