基本編 右アッパー(1)

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基本編 右アッパー(1)

 友永の復帰戦から一夜明け、「大森ボクシングジム」はいつもの雰囲気を取り戻していた。  三枝と大森は、昨夜水道橋の和菓子屋で購入した饅頭をつまみながら、海外のボクシング中継を録画した映像を観ていた。画面の中では、現在WBAとIBFの世界ミドル級二冠王に君臨するジョン・カンバーランドとWBA三位のアレクサンドル・ナボコフが拳を交えていた。 「カンバーランド、最近調子いいみたいだな」  茶を啜りながら大森が言うと、三枝が受け合った。 「ええ、四ヶ月前のノンタイトル戦はたった三ラウンドでKOでしたし、その前のIBFの防衛戦も六ラウンドTKOですからね」 「それにしてもこのふたり、身長差あるなぁ」  大森の指摘通り、百九十一センチのカンバーランドに対してナボコフは百七十三センチと、実に十八センチも差がある。更にカンバーランドはリーチも長く、ナボコフのパンチの届かない距離から楽々とジャブを当てている。 「ただナボコフはディフェンス固いですからね、それに出入りも速い」  三枝の意見を実証する様に、ナボコフがカンバーランドのジャブをかいくぐってボディにパンチを集中砲火した。ロープ際に追い込まれたカンバーランドがたまらずナボコフの頭を押さえてクリンチする。レフェリーに分けられたふたりが再び接近すると、今度はカンバーランドがナボコフの飛び込みにアッパーを合わせる様になった。一進一退の攻防が続き、均衡が破れぬままにラウンドが終わった。  そこへ利伸が入って来て事務室を覗き込み、軽く頭を下げて挨拶した。 「チワッス」 「おぉ利伸、昨日は楽しかったか?」  三枝が笑顔で尋ねた。昨夜の試合後に行ったささやかな祝勝会に、短時間ながら利伸も参加していた。 「あ、はい。友永さんにはごちそうになって、ありがとうございました」 「それは今度祐次に直接言ってやんな。まぁアイツは嫌な顔するかも知れんがね」  大森がニヤけ面で言い、利伸は苦笑で受け流した。  友永の発案で急遽行われた祝勝会費を賭けたセミファイナルの結果予想で、友永と井端は予想を外して負けたのだが、言い出しっぺの友永が全額を負担したのだ。給料日前をアピールしていた井端に配慮したのだが、獲得したKO賞の賞金の半分近くを払う羽目に陥った為、友永が頻りに悔しがっていた。  利伸が更衣室へ行った所で、三枝が切り出した。 「会長、そろそろ利伸にアッパー教えようかと思うんですが」 「アッパー? まだ早くないか? フックも漸く身について来たばかりだろ」  大森が反論すると、三枝は試合映像を指差して応えた。 「カンバーランドの試合観てて、何か利伸に当てはめちゃったんですよ。こういう低い相手とやる時、カンバーランドみたいにアッパーで迎え撃てたらいいんじゃないかって」  丁度インターバルを終えてリング中央に出て行くカンバーランドを観て、大森が頷く。 「あぁ、なるほど。確かにヒョロはタッパの割に軽いから、こういうマッチングは大いにあり得るな。ただアッパーは姿勢が崩れ易いから気をつけないとな」 「そうですね」  同意した三枝の目の前で、カンバーランドのアッパーに合わせたナボコフのオーバーハンドがカウンター気味にヒットした。
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