基本編 右アッパー(2)

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基本編 右アッパー(2)

 試合映像を見終えた三枝は、大森に会釈して事務室を出て、身体をほぐし始めた。既にジム内は多くの練習生が思い思いに身体を動かしていた。その片隅で、着替えを済ませた利伸がバンテージを巻き、柔軟体操を行っている。  すっかり陽が落ちて、蛍光灯の灯りがジム内を支配した頃、三枝は縄跳びを終えた利伸を呼んだ。 「利伸、リングに上がれ」 「あ、はい」  やや戸惑った顔で頷き、利伸はロープを片付けてからリング内に足を踏み入れた。 「よし、今日はアッパーを教えるから」 「え? アッパーですか?」  三枝の宣言を聞いた利伸が、瞠目して訊き返した。三枝は笑顔で答える。 「いや、お前さんはなかなかパンチの飲み込みが早いから、もう大丈夫だろうと思ってな」 「あ、はい」  瞠目したまま返事して、利伸が鏡に正対してファイティングポーズを取る。三枝も遅れてファイティングポーズを取り、横目で利伸を見ながら説明を始めた。 「いいか、まずは右アッパーからだ。今までは左から教えてたけど、アッパーは右の方がマスターし易いんでな」 「そうなんですか?」  利伸の問いに無言で頷いて、三枝は説明を続ける。 「最初に後ろ足、右足を蹴って前に体重移動する。直後に腰を切って右肩を前に出す」  三枝が一旦動きを止めて、利伸を促す。利伸は鏡に映る三枝と自分の横に立つ三枝を交互に見ながら、やや硬い動きで真似する。 「右肘を直角に開く。左のガード下げるなよ」 「あ、はい」  三枝の動きに合わせて、利伸が右肘を開く。 「そこから拳を真上に振り上げる。これが右アッパー」  三枝と利伸がほぼ同時に右拳を突き上げた。三枝の拳が顔の高さで止まったのに対して、利伸は頭の上まで上げている。 「それじゃ上げ過ぎだ。避けられた時に隙だらけだぞ」 「あ、はい」  指摘を受けた利伸が慌てて右拳を下げる。横から三枝が位置を調整して、「この辺りだ」と告げた。頷いた利伸が、ファイティングポーズを取り直して、再び右アッパーを打った。先程よりも拳の位置は下がったが、まだ高い。 「いいか、拳は顔の高さくらいまでだぞ。それ以上じゃ隙ができるし、それ以下だと威力が出ない。それと脇が甘くても威力が半減するから、脇は締めてな」 「あ、はい」  それから、三枝と利伸はラウンド終了まで一緒に右アッパーを打ち続けた。終了のベルが鳴り、ふたりは同時に構えを解いた。そこへ、井端が何故かうな垂れて入って来た。 「ウォッス~」 「何だバター!? 気合いが足らんぞ!」  サンドバッグ前で指導していた大森が、出入口を覗き込む様に見て叱責した。だが井端は全く気合いの入らない表情で言い返した。 「いやもぉ、昨日の酒が抜けなくて」 「何だお前、二日酔いか?」  三枝がトップロープにもたれながら訊くと、井端が眩しそうにリング上を見上げて答えた。 「えぇ、ゆんべ祐次さんが凄ぇ絡んで来て滅茶苦茶飲まされましたから~」  昨夜の祝勝会では、セミファイナルの予想を外した事で不機嫌になった友永が、自分が試合後で酒を控えなければならないのをいい事に井端に酒を沢山飲ませていたのだ。井端にしてみたらとばっちりもいい所だったが、自分が代金を支払わないからと井端が調子に乗ったのも否めなかった。 「タダ酒だと思ってがっつくからだろ」  三枝の指摘を受けて言い返せなくなった井端は、肩をすくめてすごすごと更衣室へ入った。コーナーで息を整えていた利伸が、三枝に尋ねた。 「井端さん、大丈夫ですか?」 「え? いいんだよあいつは、自業自得なんだから。練習で汗流せば酒も抜けるだろ」  笑顔で三枝が言い放った直後に、ラウンド開始のベルが鳴った。三枝は利伸の肩を軽く叩いて告げた。 「よし、右アッパー、もう一丁!」 「あ、はい」  利伸も応じて、鏡に向かってファイティングポーズを取った。
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