基本編 右アッパー(3)

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基本編 右アッパー(3)

 それから三ラウンズを費やして、利伸はひたすら右アッパーを打ち続けた。最初の大振りなアッパーから、終わる頃には腕も直角に曲がり、振りもコンパクトになった。三枝も感心して利伸を労う。 「かなり良くなったな。やっぱりお前は飲み込みが早いよ」 「あ、ありがとうございます」  首だけを動かして礼を述べた利伸がリングを下りたのとほぼ同時に、着替えを終えた井端が辛そうな表情でウォーミングアップを始めた。三枝は利伸の後からリングを下りて、頻りに頭を振る井端に歩み寄った。 「シャキッとしろよ。お前もプロボクサーなんだから、他の練習生に示しがつかんぞ」 「すみません……あ~頭痛え」  小声で弱音を吐く井端を呆れ顔で見ていた三枝の横から、利伸が井端に話しかけた。 「大丈夫、ですか」  眉間に皺を寄せて利伸を見返した井端が、照れ臭そうに笑いながら答えた。 「おぉ、利伸か。昨日は楽しかったな」 「あ、はい。ありがとうございました」  利伸が礼を述べると、井端は手を振って返す。 「いやいや、礼は俺じゃなくて祐次さんに言いなよ。ゆんべは全部祐次さん持ちだからさ」 「あ、はい」  利伸の返事に頷くと、井端は三枝に向き直って訊いた。 「三枝さん、さすがに今日はスパー無いッスよね?」  三枝はかぶりを振って返す。 「ある訳ないだろ、祐次は試合の翌日で休みだし、他に試合が決まってる選手はひとりも居ないんだから」 「そうッスよね」  いまいち表情筋に力の入らない井端の笑顔を一瞥して、三枝は事務室へ入った。出入口でふと後ろを見ると、利伸が鏡に向かって右アッパーを復習していた。地道な練習にも労を惜しまない様子に、三枝は満足げに頷いた。  ひと息入れた三枝は、事務室を出て練習生達に声をかけて回った。その時丁度利伸がパンチングボールを打っていたので、激励を兼ねてアドバイスした。 「上手くなったなぁ。これからはもっと手数を増やして、スピードも上げられる様にな」 「あ、はい」  頷いた利伸が、少しだけパンチの回転を上げた。三枝は暫く眺めてからその場を離れ、サンドバッグを支えつつ指導してそのラウンドを終えた。バッグ打ちをしていた練習生に声をかけてから振り返り、井端の様子を窺った。ウォーミングアップが終わって、縄跳びを始める直前だった。  三枝は少し思案して、井端に近づいた。 「おい井端」 「あ、ウッス」  眩しそうな顔で見返す井端に、三枝が静かに告げる。 「今日、ミットやるからな」 「オッス、判りました」  請け合った井端がロープを解き、歯を食い縛って小声で気合いを入れた。  六ラウンズが経過して、漸く井端がグローブを嵌めた。その様子を窺っていた三枝が、パンチングミットをひと組抱えてリングに上がった。 「よぉーし、井端上がれ!」 「ウ、ウーッス」  蚊の鳴く様な返事をして、井端はセカンドロープをくぐった。
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